April Showers
雨がひときわ強くバスの窓をたたいた。
この数日はひどい雨模様で、今日も季節外れの暴風雨。大きな荷物を抱えて移動する身としては、甚だ迷惑千万な天候に悩まされている。
「いっそ飛ばないほうがいいんじゃないか?」
生まれた淡い期待を慌てて消し去る。
隣で眠る妹の寝息が、小さく耳に届いた。ないことにしない。こいつが望む限り。そう決めたんだ。
再確認する気持ちをダメ押しするように、バスはゆっくりと高速を降り、ターミナルへと近づいていく。妹と、そして弟と共にフランスへ。迷いは持ち込まない。たとえその旅路に、俺が疑問と不安しかなくても。
「あの子がね。フランスに行きたいって言うんだけど」
久しぶりに目を合わせて話しかけてきた妹は、開口一番そう俺に告げてきた。弟が、三人で旅行へ行くことを提案。だから、行こうと。
「ずいぶん唐突だな。それにフランスって…」
やっぱり無理かな、と妹の目が語り掛けてくる。無理なんかじゃない。それどころか、必ず俺は叶えてやろうとするだろう。長らく「お願い」をしてこなくなった妹の頼み。多少の無理は聞くつもりだ。
とはいえ、行き先はフランス。軽井沢や沖縄、札幌など国内旅行とはわけが違う。手間も、時間も比ではないだろう。さすがに即答というわけにいかなかった。
「今年度の有給は残っているから、夏季休暇と合わせて一週間くらいなら行けるかな。じゃあ、今週末にでも代理店で予約しようか?」
「今月末…無理かな」
「そんな急な話なのか?」
口元が「あの子がそう言っているから」と動いた。末の弟の我がまま。まったく。こんな顔をさせるくらいなら、直接俺に言ってくればいいのに。ほんの少しの腹立たしさを感じながら、そっと「いいよ」とつぶやく。
「明日会社で話してみる。たぶん大丈夫だよ」
雲間から陽がのぞくように、表情がぱっと明るくなる。この一年、感情自体が消えたようだった。こんな表情を見せてくれるのも久しぶりのこと。またこんな顔を見せてくれるなら。どんな難題だって答えてやりたい。こういうのを、きっと「兄バカ」とでも言うのだろう。そう自嘲しながら、俺自身も久しぶりに明るい気持ちになったのを感じていた。
「ご兄妹でご旅行ですかな?」
「え?」
「ご夫婦、ではなさそうでしたので」
機内で隣り合わせた男性からの問いに、何と答えたものか。もちろん兄妹なのは事実なのだが、それを率直に言葉にしていいものか。逡巡する間に妹が会話を進めていく。
「兄で、私は長女。この子が末の弟です」
あっさりとした口調だった。
「な、なるほど、そうですか」
「三人で、初めてのフランス旅行なんです」
「それは、兄妹三人仲がよろしくて結構ですな」
窓際の三席を占有する私たちを、彼はどう見たのだろう。それは気になったが、単純に他愛もない世間話が妹の明るい表情を導き出してくれたなら男性には感謝だ。いずれにしろ不思議な連中だとは思われたに違いないけど。
フランスを訪れるのは3回目という彼の話を、半分以上は上の空で聞きながら頭の中はクルクルと空回りを続けている。どうすれば理解してもらえるだろうか。どうしたら、どうしたら。
ふと、男性客と目が合った。優しいまなざし。ふっくらとした顔に浮かぶ、柔らかな微笑。そして、そっと。小さく小さくうなずいてくれた気がした。わかりました、と。大丈夫だ、と。
あぶなかった。まさかこんな公共の場で、それも袖すりあっただけの赤の他人に。こんなにも救われた気分になり、あまつさえ感情をこぼれさせそうになるなんて。まったく無警戒だった。
「旅は道連れ。フランスまでは、まだ十時間あまりもかかります。よろしければ妹さんも、弟さんも。かの国の話を聞きたくありませんかな?」
私を挟んで、他愛もない会話が弾んでいく。ポンっと音が鳴り、シートベルト着用を示すライトが消える。妹は自然に、本当に自然に空いている席のテーブルをおろし、手に抱えていた写真たてを据えた。
写真の中では、年の割に幼い顔立ちの男が満面の笑みを向けている。今にも「また苦虫を噛み潰したような顔して!笑いなよ」と語り掛けてきそうだ。三席目に「座っている」写真の男。それは俺と妹の、末の弟。一年前に亡くなった、俺たちの大切な弟だ。
別に、特別仲のいい兄妹だったわけじゃないと思う。普通、だった。
お互いに成人してからは年に一度か二度、年始やら機会があれば顔を合わせる程度。両親を早くに亡くしたせいか、俺が守らなきゃといった気持ちは強かったが、それでも干渉を遠回りに迷惑がられれば、それ以上は「そうかそうか」とかまう気はなかった。
が、まだ大学生だった弟と、年の近い新人社会人の妹はいろいろと気もあったようでそれなりに機を見ては顔をあわせていたらしい。特に妹にとっては、わがままを言いながらも甘えてくる弟がかわいかったようだ。たまに会うとぶつくさと小姑じみたことを言いながら、それでも面倒をよく見ていた。
二人で俺の悪口も言って、笑いあってもいたようだ。弟にできた彼女の話も聞きこんで、「あの子も大人になったわね」などと告げ口をしてきたことも懐かしい。妹が弟を穏やかに愛おしんでいたように、俺もまた二人を大切にしたいと感じた。その感情の持ちようが二人に言わせれば所帯じみていて、一人親のように面倒見ようとする様子が窮屈でもあり、苦笑の種にもなっていたようだが。そう思われても変える気はなかった。
普通に、本当に当たり前にいる家族として、お互い支えあって生きていく。そう信じていた。
でもまさか、年若い弟がああもたやすく、突然いなくなってしまうなんて。そして弟の死が、妹をあれほどに変えてしまうとは。まったく予想外だし、想像もできないほどの変化だった。
それはもちろん、俺だって信じられない気持ちだった。庇護してくれる親を亡くし、三人で支えあっていこうと。なかでも長兄の自分は、二人を守らなくてはならないと、強く考えていたのに。
喪失感なんて漠然とした、霞のような思いじゃない。はっきりと手に取れるような確かさで怒りを感じていた。「なんでだ!」と。感情をぶつけられる対象もなく。ただただ、目の前が真っ暗になるような谷の目前で、ぎりぎり辛うじて自分を保っているような日々だった。
だが、妹のそれは俺のそれをはるかに超えた。葬儀の日まで泣き暮らした妹は、弟が荼毘に付したあたりから全ての感情を消した。表情を変えず、話もせず、何も見ず、反応をしない。食事も出せば食べるし、風呂にもトイレにも自分で行く。夜も、眠る。しかし、自らは何ひとつ要求も感情も言葉も、何も発しない。
そのころは仕事にも怖くて行けなかった。自分がいない間に、今度は妹に何かがあったら…そう考えただけで動けない。じっと妹の隣に寄り添い、話しかけ、食事を作り、家事をこなした。常に視界の中に妹を置いていた。何も話さない、瞳にうつさない妹へ語りかける毎日。それは苦痛だったが、やめることは(そして諦めることは)より大きな恐怖だったから。
半年を過ぎたころ。突然、妹は以前のように話を始めた。朝、「おはよう」と声をかけられたときの驚き。取り戻せた。俺は全部を失ったわけじゃなかった。そんな喜びは、次の瞬間に凍りつく。
「あの子がお腹空いたって。私も。ねぇ、早く三人で朝ごはん食べよう?」
それを覚醒と呼ぶのなら、妹は一日の中で「眠りと覚醒」を交互に積み重ねていくようになった。「眠り」の時は以前同様。自らは何も発することなく、宙を呆然と見つめている。「覚醒」の時に弟は現れる。妹は弟と語り、その内容を俺に伝え、「三人で会話が交わされる」のだ。
幼いころから俺や弟にせがまれ、さまざまなお話をつくっては「お話語り」を繰り返してきた妹。だからだろうか。俺は見えもせず、話も聞こえない弟を含む「三人での会話」を、いつしか自然にできるようになっていった。妹を通じて交わされる、何気なく、日常的で、でも決して核心に触れることはない会話。
妹に説明をする?今の状況を伝える?そんな気はさらさらなかった。だってそうだろう。そのときは、妹も弟も戻ってくるんだ。俺の目の前に。たとえ幻でも。たとえそれが、嘘であっても。誰にも迷惑をかけていない。それで俺の大事な妹と弟が幸せなら…。いったい何が悪いって言うんだ。
ごまかすつもりはない。俺も、俺自身もそれを望んだ。俺自身も救われた。うれしかった。しあわせだった。兄弟への不満を困ったように語り、俺と弟をたしなめる妹が、「普通に」話してくれることが幸せだったんだ。
幻の弟は、妹を救ってくれた。俺を救ってくれた。その弟がフランスへ行けという。妹が行きたいという。行かない理由なんてないだろう。今はもう、仕事だってできる。人生を取り戻した。俺はもう、普通だ。妹は今回のことがあるまで外に出られなかったけど、このフランス行きでそれもクリアした。これからどんどん良くなるはずだ。全部が絶対に。良くなるはずだ。
ーーー本当かよ?
黙れ。俺を、俺たち三人を救ってくれなかった常識なんてクソくらえだ。親を、弟を奪った現実なんて知ったことか。俺の妹から笑顔を奪った。言葉を奪った。感情を奪った。そんな「事実」に用はない。冷たすぎる雨が降りしきり、俺の家族を凍えさせる世界がリアルと呼ばれるならば、俺はもうリアルなんていらない。
今を守れれば。今だけは守らなければ。
今度こそ、守るんだ。
「ちょっと、何よいきなり」
妹の声で我に返る。パリで長距離飛行を終え、今度は長距離バスへ。地元の路線バスに乗りかえて、ここまで妹はまっすぐにやってきた。日本からフランスまで懸命についてきたように感じた静かな雨も、バスから降りる直前にようやく止んだ。妹が雨に濡れて、体調を崩したら。そんな心配はひとまずしなくてよくなったことに胸をなでおろす。
フランスの片田舎。俺にはもう、ここがなんという土地なのかもわからない。白い石構えの美しい家々。丁寧に手が加えられた花壇には、色とりどりな花のつぼみが今にも咲きそうに膨らんでいた。妹は一切の迷いを見せずに弟と話をしながら、それらをすいすいと抜けていく。俺はただ、それについていくだけだった。
「あんたはさ。この景色が見たかったの?」
妹が問いかける。何かを聞き、納得したようなうなずきを見せる。俺も会話に加わらなければ。
「エッフェル塔も凱旋門も、ヴェルサイユ宮殿だってないフランスの片田舎の森と原っぱが、なぁ?」
これが、弟が見たかった景色。俺たちに、見せたかった景色。空は、高い。広くて高くて。でも近くも感じる。不思議な空は明らかに初めて見る空で、日本の空とは明確に違うものだった。これこそがきっと、大陸の空なのだろう。弟は、この空を兄と姉に見せたかったのだろうか。
「ちょっと!走るのやめなさいって!ころぶわよ!」
妹の目線が遠くへ広がった。どうやら我が家のワンパク小僧は駆け出してしまったらしい。
「落ち着きないな。あいつも」
「いつまでたっても、ね」
「そうだな。いつまでたっても、だ」
いつまでたっても。これからも。ずっと変わらないんだ。きっと。
追いかけるように先へ進むと、足元に小さな変化が生まれた。白い小さな花弁が一面に広がる。おじぎをするように下を向く、茎に垂れる白い小さな釣鐘。スズランだった。
「ちょっと! どこにいるの?」
妹があたりへ呼びかけている。ほんの少し小さな丘を越えただけ。木々が生い茂る深い森は、視界の先に広がっているが距離が遠い。
「いないのか?」
ただならぬ雰囲気に、こちらまで不安になる。
「声は聞こえるんだけど。姿が…。ふざけないで!まるで子供じゃない!」
「落ち着けよ。大丈夫だから」
妹の小さな肩が揺れる。思わず支えるがそのまま座り込んでしまった。先ほどまで降っていた雨で濡れた、一面に咲くスズランが俺たち二人をそっと受け止めてくれたように感じた。
「はなし? 花の話を聞きたいの?」
妹の瞳が、暗く光を失い始めた。どこか遠く、何かを探すように。
「おい。なにも無理して…話さなくていいんだ。な?」
自分でも驚くほど頼りない声は、妹にはまったく届いていないようだった。
「ヨーロッパではね。四月にはたくさんの雨が降るんですって」
もう。俺の声は届かない。妹はただ、姿なき声だけの弟へ語り始めた。
晴れた空が大好きなヨーロッパの人たち。
彼らはね、重苦しくて黒い雲に包まれる四月の空も、
降り続く雨も本当に苦手だったの。
サクラを楽しむ私たちとは、まったく別の季節感ね。
この感覚が分かるの?
じゃあ、あんたも前世はヨーロッパ人かもしれない。
それでね?
苦手な四月の空と雨を何とか乗り越えるため、
彼ら彼女たちは、いつしかこんな言葉を口にするようになったの。
April showers bring May flowers.
四月の雨が、五月の花を咲かせるって。
やがて来る、花咲く五月を待ち望んだのね。
とてもきれいな言葉だと思う。
それでね。この言葉には、転じてこんな意味もあるの。
それは…。
「悲しみの後には、きっと幸せが戻ってくる」って。
なに笑ってんのよ。
私や兄さんに? 五月の花が?
きっと咲くって…。咲いてほしいって。
どうしてそう思うのよ。
バカじゃないの! 咲くわけないじゃない!
しあわせになんて…なれるわけないじゃない!
あんたがいないのに。もう会えないのに。
二度と…会えないのに!しあわせになれるなんて、なんで思えるのよ!
バカ!
「だって咲いているでしょう?スズランの花が、さ?」
目を見開いて宙を見上げる妹を見つめ、俺は何もできなかった。失敗した。守れなかった。また。また俺は、家族を守れなかった。ここに来たのは間違いだったんだ。来るべきじゃなかった。馬鹿みたいに甘い考えで、浮かれていた自分にもう、腹も立たない。妹はもう、帰ってこない…
「そう。だからフランス。だから、スズラン…」
思わず勢いよく顔を上げると、妹の瞳へゆっくりと光が戻っていくのを感じた。その目が、こちらを見る。まっすぐに。俺を見る。
「スズランだよ、兄さん。あの子は、この花をこの国で、私たちに見せたかったんだよ」
どういうことかわからず、ただ見つめ返すことしかできない。妹の顔へ笑みが広がる。瞳からは、あの日から見ることがなかった涙が次々に溢れだしていた。
「あの子は、私たちをここへ連れて来てくれた。フランスではね、兄さん。毎年5月1日になると、親しい人や家族や愛する人へスズランを贈る習慣があるんだって」
5月1日。それって…
「そう。今日だよ。大切な人に花を贈る日。そして贈られる花が持つ花言葉はね…」
そっと丁寧に伝えられる花言葉。花それぞれが持つメッセージ。スズランのそれは、
「純粋、やさしさ、謙遜。そして、return of happiness ~しあわせは再び訪れる、だよ。兄さん。あの子から、私たちへのメッセージ」
「四月の花は五月の花を咲かせ、そしてしあわせは再び訪れる」
雲間から光の階段が幾筋も降りてくる。妹の手の温もりを背に感じながら、俺はあの日以来初めて声を上げて弟を惜しみ、遠ざかる気配を懸命に手繰り寄せていた。
明日から、今この瞬間から始まる新たな旅へ。妹と共に向かう日々の羽音を聞きながら。弟からの最後の贈り物をそっと、そっと掌で抱きしめた。
from Aimer/April Showers
5thアルバム『Penny Rain』収録 2019年
フランスで見た空の色。広がり、深さ。
街並みの美しさ。自然の大きさ。異なる文化の底知れぬ魅力。この曲を聴くたびに、それらが思い出されます。
この話はコロナ禍で上演できなかった、私が制作したオリジナル脚本がベースになっています。歌詞に込められた世界観に惹かれ、ずっと浸りたくなる一曲。リピートし続けたり、タイミング次第で一聴しただけで涙がこらえられない曲でもあります。いつか芝居という形でも、表現する機会を得られたら幸甚です。
※冒頭のイラストは、Twitterで大変お世話になっているm5さんよりご協力いただきました。この場を借りて、改めてありがとうございます!
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