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Night World 〜 第一夜 星のとびら 〜
重い扉を開くと同時に、清冽と呼ぶにふさわしい冷たく容赦ない空気に包まれた。鼻の奥がツンっとします。私は今一度、厚手のマフラーをゆるゆると整えて、服と身体の間にあるほんの小さな隙間へ冷気が忍び込まぬよう、無駄な抵抗を試みました。
気持ちが負けてしまわぬうちに、扉を閉めて夜の闇へ。かちゃりと小さな音を立てて鍵を閉め、くるりと振り返って歩き出します。いつもの通い慣れた夜の道。いつか父さんに教えてもらった、裏の小さな名もない丘へ。細くほそく、そっと続く。闇の中では尚いっそう、頼りなくも消えない道を。
「美しい夜の空が観たければ、凍えるほど寒い夜を選べばいいさ。」
いつも、父さんの無責任な言葉とやさしい笑みを思い出します。それはきっと、そうなのだけど。たしかに実際、そうなのだけど。それにしたってひどいじゃないかと毎回思い、笑ってしまうのです。
いつもの場所へ向かいがてら、ときおり立ち止まっては双眼鏡を覗き込みます。細い皮の紐を首から下げて、決して夜道に落とさぬように。
私にとって、ほんとに数少ない宝もの。自信をもって大切と言い切れるもの。
「通い慣れた道であっても、人生何が起こるかわからないよ。」
これは母さんの言葉です。コロコロと、明るくよく笑う人ですが、思い浮かぶのはこんな思慮深い言葉ばかり。放言ばかり思い出す父さんとは真逆。不思議な両親だと思うのです。
月も隠れる新月の夜。雲は、ほんの幾つか浮かぶばかり。枝の間に間に見える夜空は、一面の光の粒で溢れています。
これが観られるならば。そんなふうに思わせてしまうのはズルいです。風邪なんてひいたら、なんと悔しいことでしょう。ぜったいひいてやるものかと強く思います。
弾みそうになる自分の足に、落ち着いてと懸命に言い聞かせながら。努めてゆっくりゆったり歩んでゆくといつもの場所にたどり着きます。頭を少しでも上に傾ければ、視界のすべてが星々と隙間を埋める深い闇で埋め尽くされます。
父さんが教えてくれた秘密の場所。いまは、私だけの秘密の場所。
そっとヘッドホンを取り出して、耳に当てます。きっと真っ赤になっている両耳を、鞄の奥で部屋の温もりを残していた耳当てがそっと覆いかぶさる瞬間。音と世界が遠くなる刹那が好きです。
私を取り巻く「いろいろ」。素敵なものも悲しいものも、全部から守られたような安心感。それが、夜の空と同じくらい好きです。
そうして、双眼鏡で空を切り取ります。西へ南へ、北へ東へ。聴き慣れた曲たちに、人差し指を小さく操られながら。私らしく、わがままに。
涙が流れることもあれば、知らず笑みが浮かぶことも、ただただすべてが抜け落ちて空っぽになる夜も。こころという、日常でも思い通りにならない私のピース。それがいっそう暴れ出すのを感じます。
そのとき、目のはしに浮かぶ小さな星が、すっと下へと流れました。流れ星、とすぐに目で追いましたが、不思議なのはその光が地平線の先へ消えないのです。いや、この方向は海なので水平線でしょう。とにかく光は、視線の先にあり続けてひかり続けています。
双眼鏡で覗いてみると、光は相変わらず小さく、でも確実にそこにありました。思わず一歩踏み出し、近づいてみます。
光はすこし、輝きを増した気がしました。
一歩、また一歩。
双眼鏡で見つめながら近づいていく。まっすぐに、まっすぐに。まっすぐに?
丘の草はらに立っていた私が、石くれにも木々にも阻まれることなく、まっすぐに。丘を下っている感覚はありません。そもそも先ほどまで足首に感じていた草の感触も、あれほど忍び込もうとしていた冷気さえも…。
私はどこを歩き、どこへ向かっているのか。
そんな恐れ。双眼鏡を外したい思い。
何か特別な夜がはじまったのかもしれない。
そんな畏れ。覗き、歩き続けたい想い。
光はどんどん大きくなります。最初は白い光と視えていましたが、近づくほどにあらゆる色が混じり合い、ひとつの色に定められない複雑で深い輝きだと気づきました。
ばくばくと強い胸の音が、ヘッドホンで包まれた耳に響きます。その音に背を押されるように、脚を前に。前に。もう光は、視界のすべてを埋め尽くしています。
突然、本当に突然現れた砂に足をとられて、私の右足はもつれ、左足と絡まりました。「通い慣れた道であっても…」まして初めて歩く道なら尚更なのに。あっと思わず庇うために、双眼鏡を目から外して胸に抱きます。倒れてゆく身体。光に眩んだ私の目には、四方が闇でしかありません。
固く目をつぶり、重力に従う覚悟を決めたその時、そっと誰かの腕が、私の体を支えました。力強くはないけれど、そっとそっとしっかりと。一瞬ここまで私を導いてくれた光が見えた気がしたのは何故でしょう。光にはカタチなどないのに。
「大丈夫?」
細い声が問いかけてきました。私はそっと頷きます。大丈夫、と。
ゆっくりと目を開くと、ほのかな光。砂浜に落ちた星の光。その前には、同じ年頃でしょうか。女の子がこちらを見つめていました。
「あなたも、この光を見つけてきたの?」
彼女は問いかけてくれますが、私にはわかりませんでした。だって双眼鏡で光を追っただけですから、これがそうかと確信が持てないのです。
「…たぶん、ね」
自信はありませんでした。でも助けてくれた彼女に何か答えなくてはならない気がして言いました。
「助けてくれて、ありがとう」
「これは扉だと思う」
いつの間にか隣に立った彼女は、確信めいた口調で言いました。
「どうしてそう思うの?」
「だって、あなたもそう思っているでしょう?」
そう。私たちが見つめるこの星は、それはたぶん扉でした。双眼鏡でみた光で形作られたもの。その輝きの向こう側に見えるのは、見慣れた海でも山でも街でもありませんでした。
怖くないのはなぜなのでしょう。こんなに不可思議なことが起きているのに。辺りに見慣れた風景はひとつもなく、ここがどこかもわからないのに。
この扉がきれいだから? 特別がはじまった気がするから? それとも、隣に彼女が一緒にいるから?
「行ってみましょう?」
彼女がぽつりとつぶやきました。
「大丈夫。隣にいるわ。あなたの隣に。」
ふわふわと頼りなく歩きはじめながら、私は答えていました。
「いいよ。一緒なら。」
こうして私たちの夜が、静かにはじまりました。