Night World 〜第四夜 暗い森で 〜
ほら。見上げてごらん。
お父さんが見てくれているよ。
初めて手を繋いだ帰り道でも
些細な喧嘩から仲直りした河原でも
大切な言葉をくれた湖岸でも
あなたを抱き上げた、あの日の夜も
いつだってあなたのお父さんは
夜空と一緒にいたの。
だから空さえあれば大丈夫。
私もあなたも守られている。
そう心配なんていらないよ。
きっときっと大丈夫だから。
それじゃあ。ねえ、お母さん。
宙さえ見えない今の私は
お父さんにも、お母さんにも見えないのかな。
ねえ。教えてよ。
いい子にするから。なんだってするから。
どこに行けば、どうすれば
私はふたりに会えるの?
気がつくと、夜の闇の、そこ。
あたりには太い幹の木、き、キ、k...
もっと視界は輝いていた気がする。とても楽しい場所にいた気がする。そんな感覚もあるけどひどく曖昧で、手を伸ばすとあっさり消えていきました。
私はまた、まだ、蒼く黒い深い森にいます。
あの木の影に感じる気配はなんでしょう。何かが見えるわけでも、聞こえるわけでもありません。なのに感じる。潜むものを。
そして知るのです。私が恐れていないことを。強さではなく、諦め。受諾という名の諦観。両手を広げて迎え入れんばかりの。
さあ。
決意を込めた一歩を樹々の先へ。影へ。ですが気配は姿も見せずに、さらに奥の木の影へ逃れていきます。
さあ。さあ。さあ!
果てのない追いかけっこに私は苛立ち、その度に心の衣を一枚ずつ、静かに剥ぎ取られている気がしました。闇よ、影よ。お前まで、私から逃れていくというの?
私のそばに、い続けてはくれないというの。
何十本もの樹々を越えて、いくつもの傷を胸に重ねて。涙はこぼれません。顔はこわばり、表情は歪んで。乞い、欲して。きっと今の私に会えば、悪鬼だって逃げ出すでしょう。鏡で見るまでもありません。今の私は、きっと。
いつの間にか雨が降っています。
ふわりゆらりと全身にまとわりつく細雨。振り払えど振り払えど。私のすべてを余すところなく濡らしていきます。星のあかりも届かない森の夜。なのになぜか淡く仄かに、白く輝いて見える水の粒。
目頭に集まった雨が静かに流れ出し、あご先へと流れていきました。
お父さんも。
お母さんまで、いってしまった。
私の腕の中からすり抜けて、いってしまっ…
どうして私だけが、どうして私だけに。
お父さん、お母さん。どうして?
樹々の間を抜けていくと、突然小さな空き地に出ました。気持ちと共に足の力が抜けて座りこむと、もう二度と立ち上がれない気持ちが湧いてきます。
でも、抗う必要があるでしょうか。
探し物が何かなんて、考えなくたって知っています。わからぬふりをしたって、それはぜんぶただの誤魔化しです。見つけたいもの。持ち帰りたいひとつ。そんなもの、他にあるわけない!二人じゃない。ひとつ。私にとって分けることなどできない、たったひとつの二人。
わかるでしょう?返してください。いい子になるから。もう、わがままなんて言わないから。他には何もいらないから。私を捧げたっていいから!
どうか。どうか。どうか。
…お願いだから。私を、みて。
うずくまり俯いた鼻先に何かが触れました。背の高いアヤメの花弁。ぼんやりと見つめる私の目の前で、青い花がゆっくりと開いていきます。甘く、生々しい青い香り。はっきりと意識するより先に、喉の奥から声が溢れました。
吠えるように吐き出された息の塊が、花を揺らしました。ふわりと、私の気持ちはすべて無視して。優雅に、優しく、滴る雫を払いながら。
耐えられず顔を上げると、一面の青。
私が暗い感情に塗りつぶされて叫んで泣いても、それと関係なく、こんなにも美しいものがある。
もう限界でした。
終わらそう。
そう決意し、見上げる黒い闇空。ただ雨が舞い落ちるだけの宙の穴。最後の糸を切る、その刹那。小さな空気のゆらぎが耳に届いたのです。
小さく、か細く、なのに確かに。微かに。
声。呼び声。私を呼ぶ、歌声。
それが少しずつ近づいてくるのを、私は呆然と聞くしかありません。
この深い森を、闇を。まっすぐに。
私を呼ぶ美しい歌声が近づいてくる。
悲しみを祓い、鼓舞するではなく。
この闇から救い出さんとするでなく。
強い光を背負ってくることなどなく。
目と口を開きしゃがみ込む私めがけて、歌声は歩みを止めずにやってきました。樹々の先に小さな赤い灯火が、ちらちらと見えては隠れ、隠れては見えます。幻聴でも幻覚でもなく、本当に。
「見つけたよ。こんなところにいたんだ。」
くるくる廻るカードを引き連れて、彼女は私を見ると笑いました。
「すごい!夜の青い花畑なんて素敵!」
周囲を見渡してはしゃいでいます。手に持つ灯火が、その度にふわりと舞います。闇に慣れた眼にはあまりに眩しくて、目からは涙が止まりません。
でも、いつまでも見つめていたいと思いました。
「どうして?」
私にはそう問うことしかできません。私なんかのために、こんな闇の中を、いったい、どうして?
「あなたも私の歌を。
声を見つけてくれたでしょう?」
淡い光を掲げ、孤独へ寄り添うために。
雨は止み、でも涙は止まりません。
ただ、
冷たかったそれはいつしか、体温の温もりを感じるものに。
座りこみ、小さな声で歌い続ける彼女の隣で、私はそっと空を見上げました。
そこにあるのは空、宙、そら。
視線を落とせば、さっきまであんなにも恐ろしかった青い花々が小さく輝いているように見えました。
たしかな視線を宙に感じながら、私はまたそっと瞼を閉じ、歌声に浸ってゆきました。
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