生きるのつかれた
「生きるのつかれた」
©️HONEBONEさまの歌を拝聴して
総文字数1590
再婚予定の話まで進んでいた彼女と別れた。
履歴書にバツを2つつけても俺は何も成長しちゃいない。
イライラしながらポケットの中を漁っても出てくるのはくしゃくしゃのレシートと、掠れたライターの炎。
「あーくそっ……」
マルボロが切れた。また買わなきゃ。
物価高のせいで躊躇したいが、ベビースモーカーの俺にとって煙草が切れるのは死活問題だ。
ふと左手首を見ると2本の白い線が見えた。5年前と、1年前に切ったあの傷はまだ生々しく俺をあちらの世界に誘う。
どうせなら、死神とやらに魂まで抜かれたいものだが、俺にはそういうものは来ないらしい。
精神科で診断されたのはやっぱり鬱病だった。
有名だから、その病気の名前だけは知っているし、周りにもそういう奴が仕事でいたのでああ、俺もついにそうなったのか、と何となく他人のように聞いていた。
しかし、俺の周囲は田んぼと二階建ての一軒家が立ち並ぶくらいで、都会のような治療環境はない。
俺は残ったお金を握りしめて家を飛び出した。
そうだ、このままありのままの自分で生きてみよう。
どうせ薬漬けにされて、大した治療にもならないならば、俺は自由のままでいたい。
そうやって俺は自分に突きつけられた鬱病と向き合ってきた。
何が正しいのか、正しくないのか、そんなものは誰にも分からない。
5年前に自己治療に踏み切って、何とか半年かけて仕事に復帰して“大丈夫だ“と思い込んでいた俺はまた知らない間に果物ナイフを手に取っていた。それが、1年前のあの日。
掠れる意識の中で聞こえたのは、もう既に別れた彼女の悲鳴だった。
何となく手首を隠した。自分で見ても気持ちのいい傷ではない。ただ、俺はこの白い線を見る度に、あの時の俺の気持ちを何度も思い出すのだろう。
埼玉から勢いのまま飛び出した俺はそのまま池袋で降りた。──なぜか分からない。本当の目的地は新宿で弾き語りをしている場所を探すことだったはずなのに。
池袋は駅前は栄えているものの、行き交う人達は皆忙しそう。こんな所で俺は何を探しに来たのだろうか。まるでドラマのワンシーンでも見つかるとでも。
自嘲的に笑い、相棒のギターを背負い直した俺はふと裏通りから澄んだ歌声を聴いた。
深々と大きい白いフードを被った、男性とも女性とも言えない中性的な声。ただ、見た目はかなりか細いから失礼な言い方かもしれないが、多分女性だと思う。
その人は、突然声音を変えた。
訴えるような声に、感情の色が乗る。
俺は彼女の歌う歌詞とメロディーをただただ全身で浴びた。魂が震えた。頭を何かで貫かれたような衝撃だ。
そうだ。まだ、俺は全然生きていない。
この42年振り返ってみろ。俺は何を残した?バツを2つ履歴につけただけなのか?
せっかくだから、もう一度もがいてみよう。
「君のおかげで、俺はもう一度進めそうだよ」
白いフードの中で、彼女の唇が少しだけ微笑んだ。えくぼがかわいい彼女にどきりとしたが、翌日も彼女の歌が聴けるのかも、と期待を胸に何度か池袋を訪れたが、彼女に会うことは一度もなかった。
そんな俺は今、ボランティアで高齢者に向けて歌っている。
年齢、性別なんて関係ない。
歌は、音楽は、絶対に魂を振るわせる。そう、白いフードの彼女のように。
彼女が俺をもう一度この世に繋ぎ止めてくれたことに感謝をしつつ、今日も歌う。いつか彼女にも届くと信じて。
生きるのは本当につかれる。これは、どうやったってつかれる。
でも、俺みたいに、もがいて、苦しんで、何も進まなくても、またいつの日か白いフードの彼女に会えるかもしれない。
そんな些細な夢や希望を持ったって構わないじゃないか。
いつかきっと、いい日が来る。そうやって俺はまた今日も生きてみようと思う。
届け、俺の声。あの、白いフードの彼女へ。
そして、彼女に会ったらもう一度きちんと言うんだ。生きていてくれて、ありがとうと。