【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城「第3話 戻らない記憶」
「マキ、何かいい事あったあ?」
店はまだ準備中。派手な同僚とは違い、私はメイクや服を整えるのに倍近い時間がかかる。
鏡に向かい口紅を引く私の顔は、彼女の指摘通り昨日とまったく違っていた。目元に幸せオーラがはっきり出ている。この歳になって初めて彼氏とお付き合いしたような感じだ。
あの後、忍と2回触れるだけのキスをしてから電話番号とLINE、メールアドレスを交換した。
何故か分からないけど、お互いに少し気恥しかったのか、仕事があるのでそれ以上交わす言葉もなくまたね、と自然に別れた。
彼がどの辺りの寮に住んでいることは親友の義兄から聞いていたので、私は母さんに痕跡をひとつも残さず引越しできた。
必ず繋がる連絡先を漸く手に入れたので、以前のようにあれこれ不安に思う必要もない。
そしてもう一つ。
忍が家に突然来ても、私が田畑麻衣であるという証拠は何一つ無い。
書類、郵便物関連は全て新宿にある家側で受け取るようにしているし、西東京市はただ忍を見つける為に今は臨時で借りている場所。
遠距離恋愛の人達の苦労を考えたら、自分は電車1本で移動できる距離なので、これくらいで文句など言っていられない。
「いいなぁ。マキは今青春って感じぃ?」
「でも、ミカさんの方が若いじゃないですか。私なんて底辺ですよ」
「でもぉ〜、マキの常連にちょっと年上のイケメンいるじゃなぁい? 外科の先生と内科の先生と来てるけど、あの人も医者なのかしらぁ」
この世界は年齢関係なく、業績が物を言う。私よりも3つ若いミカは3ヶ月間連続で店のトップに君臨している。
彼女は何故か私によく話しかけてくれ、この店で1番仲良くしている子と言っても過言ではない。
ひとつ不安要素があるとしたら、私の顧客である「とある人」がミカのもろ好みらしい。
あの人には奥さんと子供が居て、それでも私の為に定期的に医者とここに来てくれているだけなので、あまりミカがゾッコンすると困る。
それに、彼と話ししている内容は、出来れば誰にも聞かれたくないものだ。
「ほらほら、そろそろ開店よ。皆、入口に着いて」
店長の一声で私達は自分のボジションに並び、精一杯の笑顔を作る。私は底辺なのでお客さんの接待ではなく、基本裏方とヘルプのみだ。
それでもここのスタッフは業績を争う相手を蹴落としたりせずに、普通に対応してくれる。有難い事に。
「いらっしゃいませ──とと、神崎様ではないですか。今日はどちらへ?」
オーナーがやや低姿勢で声をかけていたのは、確か某大学病院の外科医で巷でも有名な方だ。若い研修医でも連れて来たのか、今回は見慣れない人も居た。さらに後ろから続くもう1人の連れは私が長年お世話になっている方。
「マキちゃん、今日もよろしく頼むよ!」
彼らは私を指名で必ず呼ぶので、上位キャバ嬢からは時折とんでもなく冷たい視線が向けられる。
医者達を上手く手玉に取ればもっと上に上がれるだろうが、私は別にここでトップを取りたい訳では無い。
ただ、将来忍と一緒に暮らす資金を稼ぐ為に、夜の仕事は都合が良かっただけ。
「……何であんな女に医者が寄っていくのかしら」
「ほんと、あの真面目臭そうな研修医なんて落とせそうな顔してるけど」
ヒソヒソと陰口を叩く同じ地位の子達の言いたい事は分かるけど、大切なこの人達だけは、あんな女達に譲れない。
神崎先生に呼ばれ、私はゆっくりと先生の席の隣に座った。ここまでが彼の仕事で、それ以降の目的は別にある。
「マキちゃん。また痩せた?」
神崎先生の隣に居るいかにも真面目そうな青年は雨宮弘樹さん。
私の唯一の親友である櫻田雪音ちゃんの義理のお兄さんで、彼女が大学卒業してから結婚して、今は双子の子供を持つ優しいパパだ。
そんな人が医者の付き合いとは言え、何故ここに居るのかと言えば……全て私のせいになる。
私は大学を中退した後、手っ取り早くお金を稼ぐ為、何も知らないままこの世界に足を踏み入れた。とはいえ、元手があった訳でもなくツテもない。
優しい店長から借金をして煌びやかな衣装を買い、慣れない化粧を学び今に至る。
何とか顧客を捕まえないと、この世界で長く働き続けるのは難しい。
1年かけ借金を返済し終えた頃、彼の病院に居る有名な外科の先生がこのキャバクラに通うようになった。どうやら推しが居るとの事で、たまたま務めている病院が一緒だった弘樹さんにも声をかけてくれたらしい。
真面目な弘樹さんは先生の誘いを断る事も出来なくて、自分の見聞を広める為に──と付き合いで来ただけなのだが、そこで偶然裏方で仕事をしていた私と会ったのだ。
一応小さいとは言え、パンフレットのような物に私の写真も名前も書いてあるので指名が出来ない訳では無い。
それから私のお金稼ぎの為に、弘樹さんは外科の先生を連れて定期的に来てくれたのだ。
勿論、この事は雪ちゃんも知っている。
「全然変わらないです、あ……でも、やっと忍に逢えたんですよ! これは弘樹さんに言わなきゃって思って」
忍の話になるとついテンションが上がってしまう。こればかりは絶対に周りに気づかれないよう、再び声を顰めた。弘樹さんも苦笑しながら声を少し下げてくれた。
「……そうかあいつに逢えたんだ。ええっと、3年ぶりだっけ? 本当に良かったな」
私の報告を喜んだ弘樹さんが同行していた先生の分と、私のお酒を追加してくれた。
少し高いシャンパンを空けて上機嫌になった先生は、既に推しのキャバ嬢を数名呼び、キャアキャア盛り上がっている。
──この空気になれば、私と弘樹さんが2人の空気で会話しても周辺から疑われない。
「弘樹さん、いつもすいません。もう少し稼いだら私も普通の仕事に戻ろうかと思っているんですけど、忍に記憶が無くて……」
「……あいつ、まだ記憶が戻らないのか」
弘樹さんは眉間に皺を寄せたまま唇に手を当てていた。
忍の記憶喪失は事故による外傷性ショックというもので、時間が経つと少しずつ記憶は戻るらしい。が、丸3年経っても忍の記憶は戻らないままだ。
記憶は無くとも体は仕事を覚えていたので、特に不自由をする事もなく彼は元気に土方業に戻っていた。
「麻衣ちゃんに言おうかどうか迷っていたんだけど……あの事故があった時、病院から俺の携帯に連絡が来たんだ」
これは初耳だ。私は忍が生死の境にいた事を後から聞いたが、それだけではない。母さんが勝手に田畑家と忍を絶縁状態にした。
死に至る大事故だと言うのに、身元引受け人が無く、緊急連絡先が忍の親友となる弘樹さんにいったのだろう。
丁度弘樹さんも薬剤師の国家試験を受ける時期だったようで、「今となってはとんでもない時期にあいつは事故ってくれたよ」と笑っていた。
「私もそうですけど、色々迷惑かけて本当にごめんなさい……」
「なぁに麻衣ちゃんが謝る事はないよ、それに、あいつがきちんと思い出したらがっぽり慰謝料請求してやるからな」
「あはは……忍に返せるかなあ、弘樹さんの方が高給取りでしょうし」
「ふふっ。冗談だよ、今日は記念にもう1本追加しようかな」
茶目っ気たっぷりにウインクした弘樹さんに私は微笑み、ありがとうございますと返す。
「すみません、これもう1本下さい」
すぐにやってきた店長にシャンパンを出してもらった。