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地獄から這い上がった先に見たもの



「○○は20歳で結婚してぇ、可愛い女の子産んで〜、そしてでっかいマイホームで暮らすの」

 美人の姉が抱いていた夢。
 4人目に実家に連れてきた人と姉は結婚し、8回の流産と死産を繰り返した中でよく3人も産んだと思う。
 キティラーの姉は女の子が欲しいが口癖で、3人目を産んだ時は本気で話し合いをしたらしい。年齢的に厳しいけど女の子が欲しい。でもまた男の子だったら、産まれた子が可哀想だ。と。

 私は美人で活動的な姉が羨ましかった。私にも私の夢があり、母が定年したら絶対に母の名前を知らない所で働こうと決めていた。

 私の付き合う人は問題のある人が多い。元々自分は『尽くすタイプ』と自負している。料理もお菓子作りも洗濯も大好き。掃除も仕事でやってるから気になるといつまでもやっている。

 だからなのか。全く魅力がない。おかん気質。

 友達の頃は楽しい時間を過ごすが、結局「彼氏彼女」の関係になると相手がまるでダメ男に変貌する。一番給料の良い病院で仕事をしていたので、金銭面においてもまず男性よりも少ないという事は無かった。(公務員よりは劣るだろうが)

 私はモンハンで知り合った後の旦那に告白され、遠距離恋愛と互いの往復を約一年半続けた。ディズニーランドも満喫。帰ってから婚約指輪というか、指輪も貰った。


 ここまでは良かった。

 東京に出て、30歳から新天地でのスタート。年齢的にも丁度いい。相手は某大手会社に勤めていたエリートだ。
 しかし私が出てから話はどんどん変わった。

「このアパートは一年契約で、今建て直している実家(祖父母が残した家)が出来たらそっちに引っ越すから」

と。
 しかも、旦那は貯金の殆どを実家の修復へ当てており、ほぼ無一文になっていた。だからってお小遣い制度にするつもりもないし、私の為にタバコやめてくれたからいいやと。軽い気持ちで考えていた。

 当時の私は30歳。生理不順で心臓も悪いし橋本病と子宮筋腫も持っている。子供が出来る可能性は低い。もし出来たら地元に帰り、仲の良い手術室の先輩に帝王切開で子供抱き上げてくださいね!とお願いしていたくらいだ。

 しかし出来なかった。能力的な問題ではない。なんと旦那が極度のマザコンだったのだ。豹変したのは一緒に住み始めてから。姑がアパートまで料理を持ってくる事も少なくは無かった。

 この先の地獄を想像した私はもう一年は二人でいたいとお願いして契約を伸ばしてもらった。
 家があるのに何でアパート?と不服そうな旦那は一切お金を払ってくれなかったので、私は退職貯金を切り崩してアパートのお金、更新料、食費、光熱費云々全て払った。

 東京の物価は高いので、まだ仕事を決めていなかった預金から毎月15万以上の赤字が出る。

 そもそも、結婚後の報告(籍しか入れていない)で両親にこの旦那と姑を函館へ連れて行った時にオカシイと気づくべきだった。
 親は二人とも嫌な顔をして「まあ東京の人間だからしゃーないよね」という反応だった。
 父は「だからやめとけって言ったのに……」と最後まで東京行きを反対していたのに、私の幸せそうではない顔を見てがっかりしていたのを覚えている。
 旦那は偉そうに熱弁を振るうが、呼んだ事もない私の名前を呼び捨てで呼びあたかも俺が「○○を幸せにしますから!」と言いたげ。
 姑は元銀行員なのでプライドが高く、あまり裕福そうに見えないうちを鼻で笑う始末。私はなんでこんなクソみたいな奴らを家にあげてしまったんだろうと激しく後悔した。
 奴らが帰った後に母が呆れたような顔で「あんたって本当に男運ないね」と言ったのは忘れない。

 それから病院へ勤務開始。夜勤をやっているせいで姑からの小言は増える。「家の事を何もしない嫁」「遊んでばかりいる」「○○(息子の名前)ちゃんが可哀想」

 私は子供が居ないという理由で土日の夜勤入りが多かった。旦那は企業の人間なので平日勤務。結局一年後、この地獄の家に入ってから全てが狂い始めた。
 姑のいびりが悪化。元々、姑は病気なのだが、憎まれっ子世に憚るという言葉通り、何度も復活を繰り返していた。
 玄関、キッチン、風呂、トイレ全てが共用。
 事あるごとに調理師の義妹と比較され、「何もしなくていい」「使わないでちょうだい」とキッチンも使わせて貰えない。じゃあ米だけ炊こうと思い米を洗うとため息をつかれて「私がやるから」と言われる始末。
 野菜を買いに行こうとすると嫌がらせのように自分で行って買ってくる。そして息をきらせて「嫁が何もしないから私がこんなに頑張っている」と近所に吹聴するのだ。
 近所の人には白い目で見られた。働かない嫁と知らない場所で罵られ、友達も居ないからどこにも遊びに行かない無いのに悪口だけが聞こえてくる。

 何でも聞こえる地獄耳が嫌になり、左顔はストレスで痺れ、体重はみるみる増え、右耳はついに聞こえなくなった。
 あれだけ毎日トレーニングしていた顔の訓練はできなくなり、顔は本当に土偶になった。呪いのような鏡がとにかく嫌いだ。

 同居して数ヶ月。冷蔵庫の中には日付の記載されたタッパーが並ぶことが増えた。料理好きな姑は大好きな息子の為に毎日料理をするのが幸せだったのだろう。
 しかし味覚の狂った姑の料理は地獄でしか無かった。私が作るものは「お前の飯には毒が入っているから食べない」と罵られ、同居していた三年半、冷蔵庫は使わせて貰えずに缶コーヒーを2本入れただけで「何でこんな所に入れるの?」と呆れられた。(タッパーが入りすぎてどこにも入れられなかったからチルド室に横向きに入れた)

 勿論、まともな味覚の旦那は「○○ちゃん(姑)のご飯、しょっぱいよ」とある日やっと言ってくれた。それもそうだ、高血圧の旦那にとってこの飯は毒そのものだ。普通に作った私の飯が捨てられ、醤油ドバドバのおひたしが並ぶ。
 無言の脅迫を繰り返す姑の飯を捨てるという選択肢は無かった。
 厄介なのがゴミだ。余したら怒られる。旦那は「食べたく無い」とはっきり言って近所のコンビニで違うものを買うことが増え激太りした。私は不味い醤油飯を食わされ、病気になったら実家に帰れるからいいや、と安易に考えていたが鋼の胃袋は全く折れない。

 太る旦那を見て姑はさらに怒り出す。「あんたがしっかり管理してないから○○ちゃんあんなにブクブク太って見苦しい!」と。
 確かに私も太っていたし、メンタルが死んでいたのでこの時自分がこんなに太るとは感じていなかった。ただ、人間はメンタルが死ぬと何を言われても『気にならなくなる』
 もはや同居の時点で心が完全に死んでいた私は何を言われてもはいはい、と聞いて何でも謝った。
 そして文句が酷いので職場を変えた。脳神経外科で毎日遅くまで働く事になり、少しでも外に出られる時間が増えた事に幸せを感じた。
 それも長く続かない。遅くに帰るとのそのそと奥の部屋からわざわざ起きてきた姑が「ご飯あるからね」と食えよ念を押してまた戻っていく。食べないと何を言われるかわかったものではない。だが、私は職場を変えたことで一つだけ反抗する事に決めた。

「遅い時間なので太るから大丈夫です、お風呂に入ってさっさと寝ます」と。

 お腹は空きまくっていたが、家で夕飯を食べるのをやめた。帰宅するのが夜9時過ぎだ。朝にコンビニでおにぎりを買って出勤するまで10時間以上ある。空腹との戦いだった。
 それでも、味覚が死んで美味しいものを認識できなくなるのは辛い。私は自分の中に最後に残された味覚を守る為に家での夕飯をやめた。

 人間、『食』は生きがいだ。

 美味いものを食べた時に幸せなのではない。たとえコンビニのおにぎりだろうが、カチカチのご飯だろうが、米粒ひとつでも誰と楽しく食べたかで全然味が違う。

 しかし新しい職場は3ヶ月持たなかった。首のヘルニアが再発、痺れて身体が動かない。最後は派遣看護師の濡れ衣を着せられとんでもない訴訟に発展する所だった。責任感のない仕事しかできない場所にはいられない。私は夜勤明けのその足で看護部長の元へ行き、「クビでいいです。今日でやめます」と言った。

 立つ鳥跡を濁さず。

 函館から出る時は勇退した母の背中を見送り、自分も幸せな結婚と東京でのリスタートをあんなにも祝福されて出てきたのに、何もかもがうまくいかない。
 部長には身体の負担が少ない病棟へすぐ移動できるよう提案されたが、私を助けてくれた同僚の顔を見るのが辛かった。
 もうあの場所にはいられない。後ろ指を指されるのが辛かった。

 看護師を続けて、たった3ヶ月持たないでドロップアウトをしたのは、これが最初で最後だ。

 東京の利点は仕事を失っても『派遣看護師』というものがある。色々調べていたおかげですぐに単発バイトを決めた。
 ヘルニアは酷く無かったが、姑への牽制も兼ねて早々にネットで頸椎カラーを購入した。首に仰々しく頸椎カラーをつけていれば、「あの人怪我してるんだな」と周囲に見られる。
 何もしない嫁と罵られている分、周囲を歩くのに頸椎カラーは手放せなかった。30度ある夏の日だろうと関係ない。

 自分を守るのは自分しか居ない。

 誰も守ってくれない、LINEに呟くと旦那に怒られる、姑は狂ったように私を罵る。陰口が基本行動だが、時には2階にまで聞こえるような声で義妹に報告する事もある。

 そんな時だ。小説を残そうと思ったのは。

 私は幾つかダイニングメッセージを残した。それでも死を躊躇ったのは死ねなかったから。このメモをバラして死んだら晴れ晴れした気持ちで旦那と姑をムショに送り込めただろうか?
 それをしなかったのは、甥っ子達の存在だ。
 義妹は嫌いではない。特に会話らしい会話をした事もないが干渉もしてこない。
 そこには可愛い一男一姫がいる。甥っ子達が遊びにくる度に私は姑に種無しと罵られた。

 結婚してからまるで一度も夜の営みがない状態で、果たしてどうやって子供が出来るのだろうか。

 何本もパソコンの前でボールペンを折っては折ってはを繰り返し、私の左手は血だらけになる事もあった。自分が死ぬならこいつらも不幸になってしまえばいい。
 そんな考えしか無かったのに、この二人が例えば私を精神的に殺した罪でムショに入ったとして、じゃあおばあちゃんを慕うこの子供達はどうなるのだろう?とふと考えていた。

 うちの実家にも姉の息子達、兄の娘達がいる。どちらもジイバアと慕う可愛い子達だ。
 血もつながらない私がここで勝手に死んだ所でどうせ何ひとつ変わらない。変わらないのにこの何も知らない子供達が不幸になるのは可哀想だ。
 死ぬなら事故か病気で死にたい。自分で命を絶っても誰も幸せにはならないし結局何も変わらない。
 別に死ぬのが怖かった訳ではない。義妹の子供よりも実家の方が心配だった。
 田舎まで東京で自殺のニュースが届くとは思えないが、親不孝なままで死にたく無かった。

 家から出られない、かと言って何も変わらない。じゃあ小説に残そう。誰かひとりでいい。誰でもいいから、私の心の声を聞いてくれる人がいたらそれだけで気持ちが変わるんじゃないか。
 それから派遣のバイトで次の職場が決まるまで繋ぎ、あいた時間はひたすら小説を書いた。  

 頭の中には常に6本のストーリーが展開している。人間は嫌いだが、人間ウォッチングは好きで、どういう風に行動するのか予測したり勝手な妄想をするのが好きだった。
 まず着手したのは兄妹の話。何故てんで土俵の違うラブコメを書きたかったのか?当時の私に一番足りないもので、気持ちがほっこりするものがとにかく欲しかった。荒んだ心を癒したかったからだ。でも兄妹の話なんて、どうせ誰も書かないならじゃあ私がやろう、と始めたのがきっかけだった。
 当時は設定が奇抜だった分反応は多かった。中でも一緒に切磋琢磨出来る仲間に出会えたのは本当に幸運で、この時に小説を書き始めて良かったと今でも思う。

 小説を書くと勿論夫婦関係はさらに悪化、姑のいびりはひどくなりついには私の宝物まで捨てられた。ロッテのレアユニフォームとか、フラッグが押し入れの一角に置かせてもらっていたのに、気がついた日には燃えるゴミに出されていた。
 200個を超える私のミニスパロボフィギュアも無い。捨てられていたのだ。
 ユニコーンガンダムが好きな旦那の為に必死にUFOキャッチャーで取ったマリーダさんのフィギュアも無くなっていた。怖くて姑に聞いたところ「ゴミがいっぱいあったから捨てておいてあげたよ」と言われたのには言葉も出なかった。

 今までも勝手に2階に上がっては冷蔵庫を使わせてもらえない私のストック飲み物をゴミとして勝手に捨てたり(未開封)、旦那が勝手に2階でコンビニ飯を食ってるとそれが私のゴミだと決めつけてゴキブリが沸くと私を罵る。
 言えない私も悪いのだろうが、最初に語った通り、同居した時点で死人だ。身体は動いているが心は死んでいる。よもや姑に何か反論する気力なんてなかった。

 バイト生活でもよかったのだが、近所のクリニックに就職した。色々あったが鼻で笑い飛ばせるレベルのイジメにもう凹む事は無い。

 地獄の3年半にピリオドを打てたのは、肘粉砕骨折のおかげだ。
 骨折のお陰で離婚出来るというのも変な話なのだが、一回目の手術では4日も家から離れられる!という至福で病院の飯が美味しいと泣きながら食べた。医者からは早く退院できるよと言われたが、週末まで病院に置かせてください!と無理を言い、結局5日の入院に伸ばしてもらった。「早く帰りたいんじゃないの?」と笑われたがとんでもない。可能ならこのままずっと入院していたい気分だ。

 勿論、入院も退院手続きも誰もいない。片手で私一人でこなさないといけないのだ。誰にも頼れず、手術の緊急連絡と連絡先は実家の母の携帯と実家の電話にしていた。
保証人の名前も母にしてもらい、家族構成を聞かれた時に不覚にも泣いた。

 半年後、二回目の手術はプレートを抜くものだったが、この時に私は自分の身体の異変に気がついた。

 たかが半年で18キロも増えていたのだ。

 一回目の手術を迎える体重から、何も生活スタイルを変えていないのにこれはヤバい。
 ちょうど姉の息子達の運動会で東京に来ていた母が私の身体を見て「あんた、どうしたのその身体……」と言ったのを思い出した。いつも私の事を「どこの相撲部屋に入るんだ?」と揶揄っていた父ですら私を見て何も言葉を発さなかった。

 この後、神様は私に幸運をくれた。やっとこの地獄から出る抜け道を。

 私が二回目の手術から退院して数日後、姑は状態が悪くなり家にいられる体調では無かった。
 嫁姑関係が劣悪な状態なので、旦那が家に居なければ私に殺人罪の矛先が向かう。
 そんなのは冗談じゃない、死人は語らずだ。
 証拠も何もない状態で私はこんなにも地獄に耐えたのにここで全てを失うのはとんでもない話だ。

 なんとかこの人には生きて貰わないといけない。慌てて車椅子に乗せ、職場のクリニックに電話して点滴をしてもらった。
 かなりの脱水状態で、かかりつけの病院に連れて行きたいのだが、本人が断固拒否。私だって腐っても看護師だ。この人の状態が悪いのは見てわかる。
 点滴をされた事を延々と文句を言うクレーマー姑を家に送り届けた後、事務長からとんでもない事を聞いた。

 姑には何かついている。ものすごい怨念があって怖いから塩撒いたと。

 翌日、まだ渋る姑をタクシーに乗せてかかりつけの病院に連れて行った。
 自分の体調がわかっていたからなのか、単純に私の世話になりたくないのか。じゃあ義妹に連絡しようか?と言えばそれも拒否。○○ちゃんはお仕事と子供の面倒で忙しいのよ!(あんたとは違うんだ)という罵倒。

 連れて行ったのは正解だった。結果は重度の脱水と電解質異常。そりゃあんな飯を食い続けていたら自殺行為だろう。

「あと1日でも遅かったら危なかったですね」と言われた瞬間、私は神様がいてくれたことに感謝した。
 事あるごとにマザコン旦那は
「お前はどうせ○○ちゃん(姑)が死ねばいいと思っているんだろう!」と罵ってくる。
 この男にほらみろ私はちゃんとお前の母親の面倒見てやってるんだと誇りたい気分だった。

 ラジオを持ってきてほしいと言われたので姑の枕元にあるお気に入りのものと、ラジオと入院に必要なものを粗方持って行ったのだが、何故か入れ違いで義妹も来ていた。そしてきっちりと入院準備を済ませる始末。

「○○ちゃん(義妹)が全部やってくれたよ、あんたが遅いから」

 そんなお小言はいつもの事だしどうでもいい。必要なラジオとスリッパだけ置いて後は持ち帰る事にした。
 丁度子供達がジュース飲みたいと駄々をこねて義妹達が退室した後、姑は引き出しを顎で指さして紙を取るように言った。口を開くのも嫌いらしい。
 その紙を見ると入院診療計画書だった。病院なんだからこの紙があるのは当たり前だし、別に大したことでも無い。検査データにはあちこち○と矢印の下マーク、赤文字で強調されている部分もあり、ああやっぱりかなりヤバかったなと看護師目線で傍観する。
 それを無理やり奪い取った姑はこれでもかってくらい、それをぐしゃぐしゃに丸め、私の顔面に投げつけた。

「お前のせいで入院になった!どうしてくれるんだ!」

 なんだ。地獄に耐えていたと思っていた私はただの奢りだった。「ここは私の家じゃない、私は所詮冷蔵庫も使えない居候の身分だから、『ただいま』」と言えない」
 電子レンジも使わせてもらえなかったのでコンビニのご飯やおかずをあたためるという感覚が無かった。
 風呂を洗っても毒を撒かれたと二回目の掃除をされ、トイレ掃除をしても汚いとよく分からない批評でまた掃除をされ、掃除機をかけると近所迷惑だから今やるなと言われる。
 はっきり言って、私は姑に人間として扱われていなかったと思う。
 東京に夢を見て、結婚に幸せを抱いて出てきたのに、史上最高体重をマークして得る物ひとつもなし、宝物も失い人としての心と唯一鍛えてきた笑顔もお金も何もかも失った。

 ぐしゃぐしゃに丸まった入院診療計画書を拾った私はそのまま無言で部屋を出た。ああ、これが姑──いや、この人の答えなんだ。

 病棟から出る途中、看護師さんに緊急連絡先を尋ねられたが、「あと1時間もしないうちにあの人の息子さんが来ますんで、その人に聞いてください。私は『他人』なんで」と言って帰った。

 どうやって家に帰ったのか正直何も覚えていない。30分もかからない帰り道なのに、1時間半はかかったと思う。
 京急蒲田の近くで忙しく動く電車を見て、誰かホームの下に私を突き落としてくれないかななんて妄想しながらそんな偶然ないよな、と諦めてトボトボ歩いた。
 蒲田駅の方に行くと楽しそうな笑い声が聞こえるのに、私の耳には全部がぼんやりしている。何と言えばいいのか上手く言えないが、間違いなく私の周りだけ世界が変わっていた。

 その夜に私は事務長に電話をした。帰って電気もつけず、暗闇の寝室で1時間くらい黙って光る携帯を見つめていた。

 これは間違いなく神様がくれたラストチャンス。お前はこのまま地獄で過ごしたいのか、それともか逃げて新しい道を選ぶのか。

 多分、地獄にいても私は変わらない。人生の半分以上を無駄に過ごし、得る物は何も無い、ただの生きる屍として過ごす事になるだろう。この過程で姑が急変したりでもしたら、私は濡れ衣を着せられてムショに居たかも知れない。
 もう一つの道は函館へ帰ること。田舎へ帰るのは簡単だ。しかし田舎情報は早い。「○○さん家の娘さん、東京に出たのに離婚して帰ってきたよ?」なんて何も知らない奴らに嘲笑われるのが嫌だった。
 のんびりと余生を過ごす両親の顔に泥を塗りたく無い。

 悩んだ所で私は事務長に「すいません、やっぱり姑が入院になりました」という話から、「離婚するので今日付解雇で構いません。今までありがとうございました」と伝えた。
 結局、電話越しでも辞めると言いつつも寂しそうな父の顔が浮かぶ。

「函館に帰っても親の顔に泥は塗りたく無い。でもこの家にも居られないからなんとか住む場所を確保したい」と言った。

 事務長のお陰で患者さんが経営しているアパートの一角を貸していただく事になり、私は着のみ着のまま僅か3日間で家を出る事ができた。仕事も有難い事に続けさせてもらった。
 地獄からの脱出手伝いをしてくれたこの事務長との出会いがなければ私は今も地獄で喘いでいたかもしれない。

 この職場は廃業となったので、私はお金がない間ダブルワークで派遣を丸3ヶ月休みなしで働いた。動いている方が何もかも気にしなくていい。一人の寂しさも忘れる事ができる。
 ただ、姑のストレスで私はキッチンに立つ度に吐いた。何か料理をしようとするととんでもない胃液が上がってきて、ぐるぐる回る世界に立って居られなくなる。
 丸3年半キッチンが使えなかったストレスとフラッシュバックで、結局まともにキッチンに立てるようになったのは一人暮らしをして約一年かかった。

 このゴタゴタでメンタルの浮き沈みが激しかった事もあり、私は小説を書くのをやめた。キラキラした文章や仲間内の楽しそうな様子に、自分だけが疎外感を勝手に感じて居られなくなったのだ。
 あの時はなんとか仲間の中に入りたい思いで忖度もしたし、勤めて明るい言葉を書いた。とにかく自分がメンタル病んでるこいつはやばいと離れていく人が怖かった。

 人としてのベースが死んでいるので、何をやっても疲れた。
 人生において関わる事なんて無いだろう人達の顔色を伺ってまで、私は何を書きたいんだろう。
 私が本当に求めているものは違う。笑いがほしい。リアルな話が見たい。心の中に潤いがほしい。もう一度、自分が人間として心から笑える何かがほしい。

 小説をまたこうしてオンラインに残そうと感じたのはちょうど今年からになる。
 それと、今の職場で就職させてもらえたことと、私が最初の土地から離れたことと出会いが人間としてひとまわりもふたまわりも変えてくれた。



 私が伝えたいことはただひとつ。

 あんたが死んでも何も変わらない。

 自殺をする人は瞬発的に死にたいと願い後の事は考えない。現実から逃げて死に走るものの、結局死んだ所で何も変わらないのだ。
 あの人にいじめられた、告発文を書いても学校は動かない。死んだ後に倫理委員会とかが重い腰を上げても「知りませんでしたごめんなさい」の一点張りで加害者側も「うちの子がごめんなさい」で終わり。

 勿体無いじゃないですか。あなたの人生。いじめたやつの為に死ぬのなんて?しかも、いじめた奴は別にあんたが死んでも気にもしないんですよ。
 そんな奴は、死んで生まれ変わった時に踏み潰されて消えるがいいと鼻で笑ってそいつよりも幸せをつかんだ方がずっとかっこいい。

 私は絶望の中で小説に出会った。
 根っこがこの通り生きる屍なので、文章だけで食べる力はない。
 看護師としてこれからも人間ウォッチングを続けながら、楽しいものを発掘したり、泣いたり笑ったり忙しい日々を過ごしていくと思う。

 人生、何があるのかわからない。
 私は偶然が重なり、重なったひとの縁のお陰でここに居る。

 診療計画書を投げつけられても、人間としての価値を見失っても、電車に引かれたらどうなるんだろう、とか妄想してもそのまま死ななかったのは辻村氏が「誰かの為にを探すんやったら、葵は俺の為に生きてくれ」と言ってくれたから。
 その後に一回しか言わんからな、って本名でも同じ事を言ってくれた。



「恩返しは困ってる他の誰かに。そうやって人は繋がっていくの」



 上記は、辻村氏が恩師から言われたこの言葉で、ここまで読んでくれた方にぜひ伝えたい。

 私の結婚生活の話はノンフィクションです。ですが、どうしても記録として残しておこうと思い何度も書いては消してを繰り返した中で書きました。

 心が壊れても、繋がった人の縁のおかげでギリギリで踏ん張れた私だから言えること。

 病んでる時は病んでる人しか寄ってこない。
 そして調子のいい時は良き縁が自然と寄ってくる。

 あれ?あの人に嫌われたかも?と思って離れた縁があったとしたら、それはそういう時期であり、本当にあなたが必要な時にまた縁は繋がるものだと思ってます。

 私のような問題児に30年以上寄り添ってくれる唯一の親友と、私の命をこの世界に繋ぎ止めてくれた相棒の辻村氏に心より感謝を込めて。

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