【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第19話 捨てられないタバコ
私はいよいよ西東京市にある部屋を解約する為、隙間時間で片付けをしていた。
元々そんなに荷物のない部屋だったが、少しずつ広くなる様子を見ると、ケジメをつける時なのだと思い知らされる。
そんな矢先、珍しく雪ちゃんからLINEが来た。子育てで忙しい彼女は弘樹さんがお休みでかつ、子供を丸々面倒見てくれないと動けないはずだ。私もこの部屋に誰かを招くのはこれで最後と思い、雪ちゃんに住所を伝え彼女に西東京市まで出てきてもらった。
「お邪魔しますう〜」
ピンクのうさぎのスリッパがよく似合う雪ちゃんは私とは真逆のふんわりした可愛い子だった。
いつも幸せそうにニコニコ微笑んでおり、人当たりがいいので誰とでも打ち解ける。忍が昔『雪ちゃんは麻衣と違って素直で可愛いなあ』とぼやいていたのを思い出した。
「引越し前だから、色々無いけどごめんね」
「ううん! 麻衣ちゃんに会えるだけで十分だよお。元気にしてた??」
「変わらないよ、私は。雪ちゃん紅茶でいい?」
「何でもいいよぉ〜。そういえば、最近ひろちゃんが麻衣ちゃんお店に居ないみたいだけど辞めたのかな? って心配してたよお」
私はびっくりしてマグカップを落としそうになった。荵さんの根回しで指名ができなくなっているので、実際私の素性は知る人にしかわからない。
今は私に見合わない莫大な料金が加算されるので、お店の事は話していない。
「ううん、店には居るんだけど……裏方で仕事してるんだ」
「そっかあ……麻衣ちゃん無理してない? なんか、疲れてるみたい」
疲れていないと言えば嘘になる。一度身体を重ねてから荵さんには定期的に求められるようになった。
彼がどう店に伝えているのかは分からないが、行為の後に私が貧血で身動き出来なくて翌日欠勤しても給料は入ってくる。店長に休みの電話をしても『荵さんから聞いている、とにかく身体を大事にして休みなさい』と優しい言葉をかけられた。
──私はある意味荵さんへ献上された商品なのだから、身体を労られるのは尤もなのだろう。そこまで価値があるとは自分では思っていないのだけれど。
「最近眩暈と吐き気が酷くて……元々貧血だからこれは仕方ないんだけどね」
「麻衣ちゃん、もしかして妊娠した!?」
「え!? どうして?」
雪ちゃんは昔からの長い付き合いでとてもいい子なのだが、時々とんでもなく突拍子のない事を言う。しかしそれがあながち間違いでは無いと完全否定出来ない自分も怖かった。
もしも、荵さんとの子供が出来ていたら──。
私にはまだ子供を育てる自信も、望まない存在へ愛情を傾ける余裕も無い。雪ちゃんと弘樹さんのように互いに求め合って授かった存在とは意味が違いすぎるのだ。
「雪、悪阻が酷くて同じ症状だったよ、立ってるのも辛い、いつも船に揺られてる感じ。吐き気も酷くて、ひろちゃんにお願いしてみかん買って貰って食べてた」
「そ、そうなんだ……多分、子供が出来る要因は無いから違うんじゃないかな?」
必死に嘘をついた。雪ちゃんは私に子供が出来たと聞けば忍との子供だと誤認して、両手をあげて喜ぶだろう。
ましてそんな誤情報が拡散して忍と荵さん、両方の耳に入ったらもうどうしたらいいのか分からない。
「そっかあ、残念。麻衣ちゃんが忍ちゃんと結婚するから引越しするのかと思ったのに……」
想定以上にしょんぼりした雪ちゃんを見ると胸が痛む。いつも私が幸せになってくれるよう祈ってくれて、自分の事のように何でも喜んでくれる優しい親友──。
でも彼女の願いである私と忍の結婚という道は100%叶わない。
「あれ、麻衣ちゃんタバコ吸ってたっけ?」
まだ煮たたない紅茶を準備している間も雪ちゃんは何も無い部屋をふらふら散策していた。無駄にカラッとした空き部屋と、殆ど使っていないベットに、空きタンスが3つ。
キッチンには未だ丁寧にラップをかけてあるタバコの吸い殻が2本だけ残されていた。
「わわっ。吸い殻なんて残していたら火事になっちゃうよ!」
「い、いいの、いいのそれはもう火が消えてるやつだから!」
「んん? でもこれ……大分古そう。何でこんな吸い殻なんて……」
「私はタバコ吸わないから……これがあれば吸う人の気持ち分かるかなって。ほ、ほら仕事の勉強の為にね」
今にも灰皿を持ってゴミ箱に行こうとしている雪ちゃんを必死に止め、私は何とか彼女から吸い殻を確保した。
あれから大分月日が経ってしまい、これは吸い殻なのか? と思えるくらいくしゃくしゃな紙屑と化していた。
忍の愛用するマルボロの匂いも、もはや分からないくらいただのゴミクズだ。唯一これがタバコの残骸とわかるのは持ち手部分の色が残っていたからだろう。
忍の着ていた服はもう部屋に残していない。これだけが唯一この家に忍が来たという痕跡なのだ。
何度も何度も灰皿ごと捨てようとしたが、荵さんとお付き合いしている今も捨てられないままでいる。
いっそ、このまま何も知らない雪ちゃんに捨ててもらった方が最後の未練に諦めがつくのではないか?
「麻衣ちゃん、ど、どうしたの? ごめんね、雪何も知らなくて……」
突然オロオロし始めた雪ちゃんを見て私は驚いた。何故か頬を涙が伝っている。例え忍が他の女性と仲良くしても、彼が別の女性を愛したとしても、私はやっぱり忍が好きなのだ。
何故、と聞かれてもこの気持ちに答えようがない。忍でないとダメなのだ。
物心ついた時から母さんの過剰な期待にいつしか精神を病み、笑顔が上手く作れなくなり、一体何の為に生きている意味さえ分からなくなっていた私をいつも励まし助けてくれた忍。
本当は忍と同じ共学に行きたかった。
母さんが男と接する事を止めたせいで右も左も知らない女達に囲まれて、会話は噛み合わず、テレビや俳優の話にはついていけない。とにかく全てが苦痛でしか無かった。
雪ちゃんに出会うまでの私は、家からやっと離れる事が出来る学校という場所でさえ地獄でしかなかったのだ。
忍の身代わりなんて何処にもいない。そして私は荵さんの求めるお姉さんにはなれない。
全て捨てられる訳がない。自分を偽り続ける気持ちまで。
「私じゃ……代わりになれないのに……」
「ま、麻衣ちゃん?」
雪ちゃんが私の頭をナデナデしてくれる。それが昔よくやってくれた忍と重なり益々涙が止まらない。
荵さんとお付き合いしても、忍が残したタバコの吸い殻を捨てられなかった。結局、何もかもが中途半端なままだ。
「ごめん……ごめんね雪ちゃん。私、やっぱり忍が……」
「うん、うん……麻衣ちゃんは、忍ちゃんと離れたらダメだよ……絶対に」
一緒に鼻をグズグズさせながら泣いてくれる雪ちゃんの言葉に何も答えられなかった。
忍と一緒になり、彼を求める事は支えてくれている荵さんを裏切る事になってしまう。
荵さんには以前からこの家を退去する事を伝えているし、これから二人で住む場所も探して貰っている。
「雪ちゃん、お願いがあるの……これを、私の知らない所に捨てて欲しいの。灰皿も一緒に」
私は驚く雪ちゃんにもう一度灰皿ごと捨てて欲しいとお願いした。忍がいた痕跡を消すなんて自分ではとても出来ない。
多分、雪ちゃんはこのタバコの残骸が誰のものなのか分かっている。普段は鈍感なのに、妙にこういう事は鋭いのだ。
泣く雪ちゃんは首を振って捨てたらダメだと押し返して来たが、私はもう一度捨てて欲しいとお願いした。
──心優しい親友に、私は本当に最低なケジメをお願いしたんだ。