【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第29話 過去との決別
忍が襲撃された翌日に私は仕事を辞める為にキャバクラを訪れていた。
店長には残って欲しいと引き留められたが、忍を襲撃した女の取り巻きがいる場所で働く事は出来ない。それに、霧雨さんの支援がなくなったらきっと手のひらを反すに決まっている。
私は、夜の仕事から完全に身を引いた。
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『田畑が明日退院するんだ。麻衣ちゃんも来れる?』
「はい、分かりました。明日伺います」
『そんな、俺に畏まらなくても大丈夫だよ』
私はついいつもの癖で弘樹さんに敬語を使っていた。もう仕事モードにならなくても良いのに。電話を切った後に再び部屋の中を見渡した。
忍が退院したら、なるべく早くこのマンションを引き払うつもりだ。出来れば誰も知らない場所で新たに活動拠点を作りたいと考えていた。
荷物を片付けているとエントランスからインターフォンが鳴った。この家に荷物を届けるようにしていたので何か宅配だろうかと慌てて主を確認すると、高級スーツをビシッと着こなした霧雨さんがカメラ越しで笑っていた。
出るべきか、無視すべきか悩む。
数秒の沈黙の後、もう一度インターフォンが鳴った。私がここにいる事を彼は知っている。もしこれを無視してしまったら今度は病院の方に迷惑がかかるかも知れない。
私のせいで忍は命に関わる大怪我をしたのだ。もう、これ以上迷惑はかけられない。
「はい……」
「麻衣ちゃん、会いたかったよ」
にこりと微笑む霧雨さんの笑顔はいつもと変わらないように見えたが、纏う空気が冷たい。彼が来た瞬間、冷たいナイフを喉元に当てられるような錯覚を覚えた。
「あの……霧雨さん、私はもうキャバクラを辞めたので、もうここには来ないでいただきたいんですが……」
「うん、知ってる。あの店から皆んなを撤退させたのは僕の指示だからね。あそこは土地も問題ないしすぐに新しいメンツで立て直せるよ。それでね、麻衣ちゃん。君だけは絶対に手放したく無い。新しい場所で輝こうよ、一緒に」
確かに彼の手腕であればすぐに立て直しはできるだろう。
でも私は忍と生きる未来を選んだので、もう夜の世界で目立ちたく無い。
「お言葉は嬉しいのですが、私はもう昼の仕事に戻る事にしたので……すいません」
「あいつに言ったんだよ、僕が麻衣ちゃんを幸せにするって。麻衣ちゃんの体調、家、仕事、金銭面だって、何だって助ける事が出来る」
そう。確かに霧雨さんに出来ない事は無いだろう。でもひとつだけ絶対に出来ない事がある。
例えいくらお金を積まれても、私は忍を選ぶだろう。どれほど貧乏で、何も無いスタートだとしても、ひとの気持ちは変えられない。そして心もお金では絶対に買えない。
「霧雨さん、貴方には私ではなく素敵な人が現れます。だから……」
「僕は麻衣ちゃんがいいんだ。なのに、どうしてあの男なんだよ……僕の方が全て優っているのに」
「確かに霧雨さんは魅力的です。でも、それは私達には通用しません。うちはとても貧乏で、曲がった両親の中で生きてきたので……」
霧雨さんは長く深いため息をついた。かなり渋々だが納得してくれたらしい。
「でも麻衣ちゃん、覚えておいて。僕は何度でも君を求める。君があいつのせいで路頭に迷う事があったら、例え何があっても一番に助けるからね」
「はい、ありがとうございます……荵さん」
霧雨さんの新しい事業の名刺を受け取り、これが最後だと彼の名前を感謝を込めて呼ぶ。すると彼は泣きそうに顔を歪めて「ずるいよ」と呟きゆっくり去っていった。
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「田畑くん、退院おめでとう!」
「まさか、こんなに盛大に祝ってくれるとはな〜」
忍が退院する前日。夕食の配膳が終わった後、居残りしていた病棟の人達が集まって盛大に彼の退院をお祝いしてくれた。よほど忍はスタッフに好かれている様だ。
「しかし田畑くんにこんな綺麗な妹さんが居るなんてね。何で黙っていたのよ?」
「それは勘弁してくださいよォ〜。麻衣は可愛いから、変な野郎がつくだろうし。それが嫌だったんです」
「ふぅん。そうやってお兄ちゃん面して、一番田畑くんが変な虫だったりして?」
「あはは! 言えてる〜。俺の可愛い妹に手を出すな! とか言っちゃってさ、2人揃って婚期逃しちゃうわよ」
所々グサグサと核心に迫る発言をされ、私は胃が軋む思いでドリンクをちびちび飲んでいた。
忍の周りには綺麗な病棟のスタッフが囲んでいる。例のよくわからない先生のモノマネは大好評のようで忍の周りからは笑い声が絶えなかった。
彼女候補は澤村さんだけじゃない。忍は元々の性格が明るいので、男女問わず人気がある。やはり、私と一緒になる選択肢は忍の未来を見据えた時に全く良い気がしない。
「へええ、田畑くんに妹さんが居るとはねぇ……」
私の隣にドリンクを持って座って来たのは、若い男性スタッフだった。忍を取り囲む強烈な女性陣には馴染めないようで私の隣に来たらしい。
「君、名前は?」
「え、麻衣です」
麻衣、と名乗った瞬間隣に座る男性は考え込んだ顔をしていた。
「麻衣さんに似ているキャバ嬢が居るんだけど、まさか君なわけ無いよなあ……麻倉マキちゃんって言うんだけどさ」
名前を出された瞬間、私はギクリと一瞬硬直した。これだけは絶対にバレてはいけない。私がキャバ嬢だった記憶は封印しなくてはならない。
私の仕事が何だろうと忍には関係ないのだが、枕営業を疑われていた過去もあるのであまり良い印象はない。
「ねえ、麻衣さん。田畑くんの許可さえあれば俺とも仲良くして貰えるのかな?」
「こら、勝手に俺の可愛い妹を口説いてんじゃねえよ。お前に絶対麻衣はやらねえ」
いつの間にか背後に立っていた忍にそっと抱きつかれた。それを見た周囲の酔っ払ったお姉様達がキャーキャーと騒ぎ、一部はニヤニヤしながら野次を飛ばす。
「おーおー、田畑くん意外とシスコンじゃないの」
「ね〜、麻衣さん。こんな兄貴でも嫌がらないで仲良くしてやって」
「は、はぁ……」
許すも何も……私の方が、忍の事を好きなのだ。始終ドキドキしっぱなしだったが、背後から絡みついていた忍の腕はとても暖かかった。
「くっそう、俺と同じ独身組の田畑なら理解してくれると思ったのに……」
「悪いな。麻衣は誰にもやらねえ。──もう決めたんだ」
冗談なのか、本気なのか、忍が私の額にキスしてきたので思わず本気で殴り返してしまった。
ああ、今まで恥ずかしさの余り忍と近い距離を取ってこなかった条件反射は怖い。多分、私の繰り出した右ストレートは加減無しだったと思う。
病み上がりの忍はわざと泣き声で布団に潜り込んでしまい、それが同僚達の笑いを誘っていた。
多分、忍は私が他のスタッフと溶け込みやすいように自分からシスコンを演じたのだろう。
その日、忍の退院決定の宴会は消灯時間ギリギリまで続き、夜勤担当の看護師さんにとてつもなく怒られた。