case-9- 欠けた記憶を取り戻す〜その1〜
case-9- 欠けた記憶を取り戻す〜その1〜
「俺、子どもなんていたっけ?」
衝撃的な言葉だった。この記録は私が尊敬している作業療法士(OT)さんと我々チーム「龍角散(担当の子どもがつけた名前)」の壮絶な戦いの記録になる。
彼は40代男性。空間無視と注意障害、そして高次脳機能障害を呈した。
結構大きな脳出血で、2回ほど死地を彷徨い復活したまでは良かったのだが、仕事復帰は絶望的。そしてほとんど麻痺は無かったが記憶が『奥様とお付き合いする前』まで遡って止まっている。
これがわたしの中で最大の難関となるケースだった。
否定も肯定もできない関わり。そして、彼の記憶では勿論、嫁も子どもの存在も無かったことになっている。
「俺は独身だよ。彼女なんていたのは大学以来じゃないかなあ」
彼は私にいつも自分は独身貴族を謳歌している話をする。実年齢と、仕事の年齢が噛み合わないのだが、それでも気にする様子を見せない。それが何故か分からなかったが、どうやら自分の年齢も把握出来てないらしい。
また40代男性。もはや私の担当は呪いの如くこの難しい世代しか当たらない。
「何言ってんですか中山さん。奥さん、毎日面会に来てるでしょ」
「それがさあ、俺、あのひと知らないんだよねえ〜……」
困ったようにそう話す彼に何を言っても難しい。毎日面会に来てくれる奥さんも悩んでいた。いつも昔の写真を持っては来るものの、彼の両親はもう高齢なのでそこまで面会には来れない。自分の存在は忘れられている。子どもも忘れられているだろうからまだ合わせていないと言うのだ。
このケースは正直答えが見つからない。私はとにかく、彼に2人一緒に写っている証拠の写真を見せて、昔の思い出話を沢山するように奥様へ伝えた。
結論を言うと、入院中に彼の記憶は戻らなかった。
ただ、不思議なことに2度目の恋というか、彼はまた奥様を愛したので、毎日来てくれる知らない可愛い女性に恋をしたのだ。
自分なんかのために、あの人は毎日面会に来てくれると喜んだ。
大学までの記憶はあるので、そこからの話を綴り、結婚式や子どもの話をして少しずつ「わかんないけど、写真に写ってるってことは、やっぱり俺って結婚してたんだあ〜」と嬉しそうに話した。しかも「こんなに可愛い嫁さん貰ってたなんて、俺も実はやるんだな」とめちゃポジティブ。良かった良かった…と言いたいところだが、
問題は子どもが面会に来始めてから起きた。
彼は奥様に2度目の恋愛をしている。子どもと、奥様の取り合いなのだ。彼の心は完全に息子と同じレベルまで退行していた。
病院で口論になることは無かったが、ある日から奥様は息子くんを連れて来なくなった。奥様に尋ねてみるとやはり旦那さんの退行を心配していたようで、
「あのひと、本気で大輝(息子)と喧嘩するんです。まるで大きな息子が2人いるみたいで……これってどうしたらいいんでしょうか」
問題は山積みだった。奥様を忘れていても恋をしたのでここは解決?
息子の存在もしらんけど、写真に証拠あるし自分にも似てるし、結構遊んでみたら子どもって可愛いからまあいいや?
やっと二つの問題をクリアするのに、実に3か月要した。そして一番の難関は、「復職支援」だ。
彼は建築関係の裏側の仕事をしていたので、非常に繊細な頭脳と指先を求められる。そんな彼はOTの時に几帳面さを披露していたが、実際に仕事の話となるとちんぷんかんぷんになった。
彼はまだ40代、バリバリの働き盛りだ。そして奥様は悩みを吐露する場所を失い、私の顔を見るたびに将来と今後の不安を話しいつも泣いた。
彼女は息子にも涙は見せないので、本当に気丈な方だと思う。私ごときに話をして少しでもスッキリするならばいくらでも吐露して欲しい。
応接室から真っ赤な目で出てくる2人に周囲はいつもぎょっとしていた。
そしてもうひとつの問題。ある日、中山さんに「俺の彼女泣かせないでよ」と本気で怒られたことがある。相手は男性だ。パワーがある。この時、一度だけ首を絞められそうになり、奥様がそれで叫んで泣き崩れたことがある。
彼はその後に私に散々謝ってきたが、私は気にしていない。彼も困っているのだ。記憶はない、好きになった女が自分の担当看護師に“泣かされている“。守りたいけど具体的な方法がないし、リハビリは単調でつまらない。
早く退院して彼女(奥様)と過ごしたい!そんなところだろうか……。
しかし退院してもいつ出来たのか分からない息子がいる。確かに自分に似ているけど、そもそも自分は結婚していないのに、なんで息子がいるのか?
あの首絞め事件から、私は彼の担当を外されるかと思ったが、逆に本人から担当を変えないで欲しいと言われた。理由は単純で、「今更知らない看護師に変わっても、俺が困る」というなんとも微妙なものだった。かなり難しいケースなので、OTのあんちゃん(イケメン!!)と可愛いPTさんの3人で彼の外泊目標についてどうするか話し合った。
彼のぱっと見た目は普通のおっさん。でも空間無視があるので、左側への注意は散漫、本人は問題ないと感じているが歩行能力も見守りレベルで、何キロまで歩けるかは分からない。そして記憶力は絶望的で、短期記憶は高齢者よりも酷かった。
例えば、近所にあるコンビニに行って、飴を買ってきてと依頼しても、全然関係ないものに目移りしたら本来の目的を忘れる。メモを持たせても、メモの“存在“すら忘れている。
携帯のLINEは使いこなせなかった。あれだけ仕事でパソコンを触っていたのに、彼はタイピングが全く出来なくなっていた。
あいうえお表を見ても言葉が分からない。話しは出来るが、机上の文字は最大の難関だった。そして、集中力がもたず、リハビリの時にあくびをして寝ることが増えた。
自主トレーニングのドリルなど奥様が暇つぶしに、と持ってきてくれたが何も手をつけず真っ白いまま放置されていた。
せめて、携帯だけでも使えるようになろう!と、一番最初のLINE応対から始めた。文字は打てないが、見ることはできる。
リハビリの一環で、奥様に手紙を書こうと、今日やったリハビリか、食べたものを送ることにしたのだが、打った内容が、
きちみち、しろなと、ひるはたいよう
ドラクエの復活の呪文だろうか(困惑)
この時に私は隣でいたのだが、彼が話している内容は確か、
「白飯(しろめし)、白身魚(しろみざかな)、味噌汁は飲まなかった、ほうれん草のなんか、あれも嫌い。午後のリハビリで外歩いた」
と言っていたはず。
ちょっと、何メートルまでは覚えていないが、何度送る内容がまるで復活の呪文だった。
「パパがね、またわけわからないもの送ってきたんだよ、ママ困ってるんだ。どうして?」
子どものなぜなにどうして?攻撃は、正直私もどうしていいのかわからない!でも、はっきり言えることはただ一つ。
「大輝くんのパパはね、死ぬほど大変な病気になって、今もずっと戦っているんだよ。頭の中の文字が、打とうとすると消えちゃうんだ。だからね、それが消えないように、大輝くんも見守ってね?」
「パパ、元気そうにいつも笑ってるのになんで?」
「そりゃあ、大輝くんに心配かけたくないからだよ。パパも、ママも、病気と戦っているんだ。ラスボスだと思っていい。毎日ラスボスと戦っているから、大輝くんはパパを応援してあげてね?」
「ふーん、そうなんだあ」
わたしにリュウカクサンというあだ名をつけた彼の息子ちゃんは何となくゲームに例えると納得してくれる。実際、パパと言語コミュニケーションは問題なかった。
チームリュウカクサンの戦いは、この後から過酷を極める…
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