【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第6話 忍sideー 葛藤
退院した後のリハビリで俺が日課にしている事がある。人間は太陽の光を一日に20分くらい浴びるといいらしい。
ボケ防止にもなるし、それで刺激になれば俺の欠けた記憶がぽっと復活するかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて毎日寮から出て、30分ほど青梅街道付近をランニングしていた。
雨の日はだりいなと思い、傘をさしていつもの道を歩いていると、電動自転車をのんびり進む女性を見つけた。
女って、髪の毛に命かけているから雨に打たれるのは嫌いなんじゃないか? と思ったが、その子は何故か傘もささず、レインコートも着ていない状態で自転車に乗っていた。
電動とは言え、自転車の動きもフラフラしているので、あんな状態で大丈夫かよと思い、俺は無意識に彼女を追いかていた。
すると案の定、彼女はブレーキをかけて止まった瞬間、雨で滑り横に転んだ。
駆け寄って声をかけようと思ったが、彼女はすぐさま電動自転車を自力で起こし、何事も無かったように反対方向にUターンして、また来た道を戻って行った。
何故こんな雨の中自転車をゆっくり漕いでいたのか。それに、何故わざわざ同じ道を戻ったのだろうか。何か大切な落とし物か、人探しか。
ただ、一瞬だけ見えたその横顔が、おばさんの家で見せてもらった物憂げな顔をした麻衣の写真にすごく似ていたのを覚えている。
麻衣が俺の3歳下だとしたら、大学を卒業した辺りだろう。どこの大学に行ったのかも知らないし、どこに住んでいるのかも分からない。
「まさか、な」
一度でもいいから、麻衣の元気な顔でも見れたらなとは思うが、俺が麻衣に会える事は無いだろう。多分、いや、これからもずっと。
その雨の日が酷く俺の中で印象的に残ったんだが、俺が横道に逸れてタバコ休憩している時に、電動自転車に乗る彼女を見かける回数が増えた。多分あの雨の日と同じ8時15分くらいだったと思う。
やはり彼女は上石神井まで行く手前でUターンをして、寂しそうな表情のまま同じ道を戻っていた。
電動自転車でこの坂道を登った所でトレーニングになるか? と言えばそうでもない。
有酸素運動ならばウォーキングの方がいいと思うのだが、毎日同じ事を繰り返している彼女の目的が分からない。
そんなある日だ。麻衣によく似た彼女とようやく話が出来たのは。
俺が毎日この色褪せたタオルを愛用しているのは、昔から使っているだろうアイテムを身につけて行動する事で、何かのキッカケで過去を思い出すんじゃないかと医者にも言われたからだ。
何も思い出さなかったが、これのお陰で麻衣によく似たマキという女性に会えた。人間、何がキッカケになるか分からない。
しかも、ずっと気になっていたその子がまさか俺の彼女であるとカミングアウトをしてきた。
騙されているんじゃないか?
こんな偶然があるのかと思うが、記憶を失う前の俺がもし妹の麻衣に好意を持っていたら、過去に付き合った女が麻衣に似ていても不思議ではない。
ただ、おばさんの話だと、俺達はいつも喧嘩していたらしいので、本当に仲が良かったのかは不明だ。
────
帰り道で電動自転車に乗る彼女にタオルを拾われた。俺はその顔を間近で見た瞬間思わず麻衣、と呼びそうになったのを必死に堪えた。
あまりにも衝撃的過ぎて、俺はすごく変な顔をしていたのかも知れない。彼女も怪訝そうな顔で俺を見つめていた。
その微妙な空気を埋めたかったのか、初対面の人間に使い古したタオルの話や、俺の記憶喪失についてまでベラベラ話をしていた。
多分、麻衣に似た彼女と少しでも一緒に居たかったのだろう。
「やだなあ、忍。私の事、覚えていないんだ」
はにかんだように笑う彼女の笑顔はあの写真のものとは全く違う。けれども、そこに俺を見つめて嬉しそうに笑う幼い麻衣が重なって見えた。
「えっと……まさか、麻衣……?」
一か八か。俺は心臓が飛び跳ねそうなくらい緊張したまま妹の名前を呼んだ。しかし帰ってきたらのは涼しい笑顔と明らかな否定。
「ううん違うよ。私は──麻倉マキ。田畑忍さん、貴方の彼女だよ?」
そう、俺は彼女が麻衣でなかった事にものすごくほっとしていた。
正直、今目の前に麻衣が居たとしてもどんな顔で会えばいいのか分からない。
まさか母さんにあそこまで拒絶されるとは思っていなかった。そりゃあ勘当されたというのも納得できる。
母さんに拒絶されるのはどうでもいい。ただ、妹にまで拒絶されてしまったら──俺は誰の為に、何の為に生きているのかまで分からなくなってしまう。
彼女が本当に俺の彼女なのか、俺の記憶喪失にあてがってたまたま近づいてきた女なのか、そんな事はどうだっていい。
俺は自分から忍の彼女だと言うマキという女性と出逢った事で、やっと何も見えない暗闇の中から生きる意味を見つけたんだ。
────
マキに会いたいと思い、連絡をするとすぐに返事が来た。
どう返事しようか悩んでいる間に日が落ちてしまい、結局返事を返したのはかなり遅くなってしまったが、彼女に会いたい気持ちを抑える事が出来なかった。
たった一言、マキに『今日も会いに行く』とだけ返信した。
その夜、不思議な夢を見た。何もない暗闇の中で小さな麻衣が泣いている。
俺は走って麻衣に近づいたが、彼女の姿は触れる寸前で消え、また遠くに離れてしまった。
「麻衣……っ!」
再び暗闇の中を走り、俺は何とか彼女の肩を掴んだ。俺に気づいて泣くのをやめて顔を上げた麻衣の顔は、マキになっていたのだ。
笑顔のマキと麻衣が完全に重なる。彼女に自分の妹の面影を重ねるなんて馬鹿げているし、かなり失礼な話だ。
こんなに中途半端な気持ちならば、俺はマキに会わない方がいいんじゃないか?
マキは俺になんて勿体無いくらい美人で、しかも料理もうまい。何故か低血圧の俺の素性も知っているからとても居心地がいい。
あいつが何の仕事をしているか知らないけど、住んでいる家を見ると俺なんかよりも遥かに稼いでいるだろう。
彼女との先を見据えた時に、俺があいつを守れる自信なんてない。
俺は大学を卒業した訳でもなく、肉体労働しか知らない。果たしてこの身体がいつまで動くのかも分からないし、甲斐性もない。
「くっそ最低な夢だ……」
寝起き直後の血圧が低い俺はふらつく足取りで顔を洗い、テーブルに置いてあるライターとマルボロの箱を持ち、ベランダに置いてあるキャンピングチェアに腰掛ける。
吐き出したタバコの白い煙が空気に溶けていく様をぼんやりと見つめながら、今日マキに会ったら、このモヤモヤした気持ちが落ち着くまでは暫く会わないようにしようと切り出す事を考えていた。