【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第16話 傷の舐め合い
「今日もご来店ありがとうございます、荵さん」
私の言葉に物凄く驚いた様子で彼は固まっていた。それもそうだ、私が彼を荵さんと呼ぶのはこれでやっと2回目。
「マキちゃん、嬉しいよ! やっと僕の事を認めてくれたんだね」
人前で堂々とハグしてきたがもう同僚の羨望と憎しみの眼差しなど気にしない。
あの日、新しい場所で楽しそうにしている忍を見てモヤモヤした感情が吹っ切れたと言えば、吹っ切れたのかも知れない。
それに、不動産とホストを兼務して忙しいのに来てくれる荵さんを、いつまでも蔑ろにする事は大変失礼に当たる。
目的は不明のままだが、彼は私に対して嫌な事は一切してこない。
お付き合いを開始してもう大分経過したが、今もキス以上先の事は絶対にしない。ある意味かなりのジェントルマンだ。それとも、私は彼に抱かれる魅力は持ち合わせていないのか……。
以前ミカに枕営業していると揶揄われたが、枕営業どころか誰かと関係を持った事は無い。そういうのって、顔や身体に出るのだろうか。この女はオトコを知っているのかどうか──とか。
「マキちゃん、また魂が遠くに行ってるよ」
「あっ、ヤダ……荵さんごめんなさい」
私は俯いたまま荵さんの腕に手を絡めた。
「今日は僕の名前も呼んでくれるし、本当に嬉しいよ。何かいい事でもあったのかな」
「そうですね、色々聞いてみて下さい」
「ふふっ、珍しく好戦的だね。好きだよそういうマキちゃんも」
────
VIPルームであろうとも、店の中で性的関係を持つ事は許されない。3時間程軽いスキンシップをして他愛無い話をした後で初めて私は荵さんに店から“お持ち帰り“された。
元々私の存在は彼専用のようなものなので、荵さんが店長と何か話をしただけであっさり事が進んだ。
荵さんからいくらチップを受け取ったのか、店長の満面の笑みが少しだけ憎らしく見えた。
タクシーが向かったはラブホテルでは無く、高級ビジネスホテルだった。ここもどうやら荵さんの経営している場所のひとつらしい。
「凄い、景色ですね」
50階から見下ろす新宿は夜であっても眩しい。伊達に眠らない街と言われるのも納得出来る。
スーツの上着を脱いだ荵さんが後ろから抱きすくめてきた。
「そうだ。マキちゃん、麻衣ちゃん。どっちで呼ばれたい?」
店では本名をバラしたくないのでマキで統一して貰っている。彼が言っているのはプライベートの話だろう。
「どちらでも、と言いたいところですけど、マキのままでお願いします」
麻倉マキは田畑麻衣ではなく偽りの人間。だから別の仮面を被り違うキャラで居られるのだ。
荵さんと呼ぶようになったとは言え、自分の本名を連呼されると気持ちが揺らぐ。
「せっかく麻衣ちゃんって可愛い名前なのになぁ」
「ありがとうございます。でも荵さんも本名じゃないですよね?」
私の言葉が思いがけないものだったのか、彼は一瞬だけ酷く傷ついた顔をしていた。
ところが彼はすぐにいつものニコニコした笑顔に戻り、赤ワインをくっと煽り、それを私の口に流し込んできた。
冷たいワインが喉を落ちる。先ほどまで店でも結構酒を飲んでしまったので、これ以上飲みすぎると悪酔いして動けなくなりそうだ。
そして一瞬離れた後にもう一度唇を重ねる。私が逃げると思っているのか、彼はいつも以上にきつく抱きしめてきた。耳元でいつになく低いトーンの荵さんの声が聞こえる。
「僕はね、自分の何を犠牲にしても構わない程大切な姉さんが居たんだ」
そう言えば、お互いに家族の話をした事は無い。荵さんは店長に掛け合って私の事を何でも知っているが、私は彼の本名すら知らない。
「荵さん……?」
「最初は姉さんが側に居てくれたら……ただそれだけで僕は幸せだった。でもね、人は貪欲になってしまうんだ。僕ではない男と一緒に、楽しそうにしている姉さんが憎くなってきた」
こちらに向ける笑顔はちっとも変わらないのに、何故か今は目の前にいる荵さんが怖い。彼は、私も忍に対して同じような感情を抱いていると思ったのだろうか。
「必死に働いて、今の地位まで登り詰めて、そしてやっと姉さんに纏わりつく虫ケラを消した所で気がついたんだ……。僕は、一番欲しかった姉さんの笑顔を消してしまった事に」
「お姉さんは……」
聞くのが怖かったが、どうしても確認しないといけなかった。荵さんは自嘲的に笑いながらあっさりと真実を話してくれた。
「自殺したよ。自分が生きているとこれからも不幸になる人が出るって。何でだよ……僕は、ただ……姉さんの側に居たかっただけなのに……!」
感情を出さない荵さんがここまで乱れたのは初めてだった。ナンバーワンの地位まで登り詰めるのは、並大抵の努力ではない。お金を稼ぎ、大好きな姉と一緒に居る為。でも彼の気持ちとは裏腹に、お姉さんは彼から離れて行ったのだろう。
彼は私と同じで、愛情の傾け方を間違えてしまっていた。
私も記憶を失った忍を自分の彼氏に出来るかも知れないなんて淡い期待を抱いてしまい、結果彼を失った。
彼がまた同じ失敗を繰り返す前に、今ならば彼を普通の道に戻せるかも知れない。
「荵さん──」
「麻衣ちゃん……?」
私は自分から荵さんの頬に手を添え、彼の唇を塞いでいた。彼の甘い舌を絡めると互いの傷の舐め合いのようだ。
「荵さんが、私をずっと見てくれていたのは知ってます。時間はかかると思いますが、私で何か出来る事があれば……」
「本当に、いいの?」
いつも落ち着いている荵さんが珍しく少年のような顔をしていた。
私はしっかり荵さんを見つめて小さく頷いた。勿論、荵さんが愛したお姉さんの身代わりなんて出来る立場じゃない。でも、私と一緒に過ごす事で少しでも荵さんが明るい道に戻れるのならば──。
「麻衣……!」
今まで女子校だけを歩んできた私は忍以外の人に名前を呼び捨てにされた事は無い。一瞬だけ心が揺らいだが、私は覚悟を決めて荵さんの身体を抱きしめた。
その日、私は初めてオトコを知った。