
緋色の月
昨日のお客さんに、ひょんな事から薔薇を届けることになった。この住所だと、多分歩いて10分くらいの距離だろうか。
少し路地を入ると見知らぬ土地の気がして冒険気分になる。通った事のない道に、並ぶ高級住宅街に思わずワクワクした。

「げっ、何この立派な家……」
3階建、しかも立派な門構え付きの家には綺麗な赤い薔薇が咲き乱れていた。こんなに自生で薔薇を育てているのに、何をとち狂って赤い薔薇100本欲しいと言ったのだろうか。これだから金持ちの考えは理解に苦しむ。
花恵は溜息をつき、任務を全うしてさっさと店へ戻ろうと思っていた。インターフォンを探していると、勝手に門が左右に開く。
キョロキョロと視線を動かしてみるが、監視カメラらしきものは見当たらなかった。サーモセンサーでもついているのだろうか。

「よく来てくれましたね」
にこりと微笑む金髪の男は、昨日花屋に来た英国紳士っぽい人だった。昨日の白いスーツとは違って、今日は黒で纏めている。なんだか、また色気と甘い花の蜜のようないい匂いがして近づくだけでクラクラした。
「は、はい。これが残りの薔薇です」
「中へどうぞ、是非お礼がしたいのです」
「店番があるので、早く戻らないと……」
「──君の働いているお店は“大丈夫“だよ。中へお入り」
あれ、何だろう。
一瞬、甘い香りが強くなった気がする。そして彼の青い瞳が一瞬だけ赤へと変わったような気がした。「大丈夫だよ」と紡いだ彼の唇の動きをみた途端、花恵はフラフラと屋敷の中へ足を踏み入れていた。
中は東京の一等地にある大豪邸だった。他にも住んでいる人がいるのかとビクビクしながら広い廊下を歩いたが、どうやら今は一人暮らしとの事だ。
「……あの、つかぬ事を伺いますが、何故ご自分で赤い薔薇を育てていらっしゃるのに、うちで買ったんですか?」
あれだけ玄関に薔薇が育てられているのに、改めて花束を買う必要など無かったはずだ。花恵の疑問に彼は「ああ」と短く頷いた。

「僕は、薔薇がないと生きられないんだ」
不思議な事を言う人だ、と花恵は首を傾げた。薔薇は確かに食用もあるが、それは加工したものであり、この英国紳士はどう見ても薔薇を食べているようには見えない。
花から直接香りを抽出してあのいい香りがする何かを作っているのだろうか。
対面式の赤いフカフカのソファに座り、花恵は彼からいただいた赤ワインを受け取った。
「あの……実は私未成年なのでお酒は……」
「それはワインじゃないから“大丈夫“だよ」
不思議な人だ。話し方が変わってきた。
試しに一口飲んでみると、ブドウジュースのように甘い、濃厚な香りが口いっぱいに広がった。
確かに甘い。ワインって、こんなに甘いのか?そうだ、ワインじゃないって言ってたっけ。
すごく眠い。甘い香りに包まれて、頭がぼんやりする。うつらうつらしていると、彼が目の前に立ち、形の良い唇を動かした。
「やっと見つけた……僕を殺してくれるひと」
気がつくと花恵は自宅に戻っていた。先ほど英国紳士に会ったのは夢なのだろうか。

何故か彼に届けた薔薇とは違う赤い薔薇が花恵の手に握られていた。
「綺麗……この暑い中で、薔薇の花弁が朽ちていない。よほど丁寧に手入れされてるのね」
薔薇からはあの人の甘い香りがした。
それから何度お店に薔薇を並べてもあの人は現れなかった。渡された住所の紙も消えていたし、記憶を辿ってもあの屋敷に辿り着けなかった。まるで今まで夢を見ていたようだ。
緋色の月を見ると彼を思い出す。
もう一度、彼に薔薇を届けたい。
「素敵な薔薇ですね」
「ええ、今回ある人の為に新しく入荷したんです」
声をかけてきた主を見上げ、思わず持っていた薔薇を落としそうになった。
金髪の英国紳士がふわりと微笑む。あの時に見せた青い瞳ではなく、緋色の瞳で。