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case-5- 一分一秒の戦場(その1)



※今回の話は患者さんに関するお話はひとつもありません。




 私は呼吸器内科から『姥捨(うばすて)山』と呼ばれる手術室へと移動になった。

 患者さんの為と思いいくら下が動いたところで、結局「業務」の枷になる人間は必要ないのだ。まして、私の味方は同期一人しか居なかった(先にもう一人の同期が移動している)

 人事移動というものは医者のえり好みとその職場のトップの采配で簡単に変わる。私のようなタイプは都合よく使われるただの駒だった。
 
「来月頭から、○○さん手術室移動ね」

「え、なんで移動なんですか?そもそも、内科から行った人いませんよね?」

 はっきり言え。お前がこの病棟で煙がられてるから“姥捨山“に移動になるんだと。
 ズル賢い当時の師長は理由をはぐらかした。case1に書いた家族はこの勤務移動してきた若くチャラチャラした師長の事も激しく嫌っていた。

 綺麗に着飾って、医者のご機嫌取りをしている看護師は上に上がる。能力があろうと、ドブの中を彷徨っても、ブスで見た目が悪ければ評価は上がらない。
 私は自分の仕事ができるとは思っていないが、みんながやらない面倒ごとを全て引き受けてきた。なのに最後はこの扱いか。

 職場移動は基本、御局レベルと単純に医者からの好き嫌いで決められる。病棟のバランス編成で口上、中堅2人を移動する訳にはいかない。そうなると同じ経験値を持つ私と同期が天秤にかけられ、可愛くて医者からも人気のある天然ちゃんが残留するのは目に見えて明らかだ。
 
 あれだけ看護研究に毎日時間ぶっ込んできたのにこの仕打ちかよ、と当時は怒りしかなかった。それでも、母から「かたわ(使えない)になるから、7年しがみつけ」と言われた言いつけ通り、しょうがないから恐ろしい「手術室」への扉を開けた。





 内科経験者が正反対の外科の知識がないとやっていけないここに飛ばされたと言う事は、“肩たたき“だ。私は誰がどうフォローしたとしてもそう考えている。
 あの時の姥捨山は離職率が多すぎて本当に人が居なかった。時間外は60時間を超えるスタッフもいて、もう手術が賄えないほどスタッフは疲弊していた。そりゃあ新しい人間が来たところでピリピリする。
 
 私は呼吸器しかかじっていなかったので、はっきり言って専門外。戦力外。視力も悪いし、機械も糸も見えない。(マイクロ糸はかなり繊細作業)

「目が悪いので器械出しはしません。記録だけしか出来ませんが、よろしくお願いします!」

 私は震えながらそう挨拶した。あまりにも「どうせこいつもすぐ辞めるんだろうな」という空気がダダ漏れの、かなりまばらな拍手だったが、当時手術室のリーダーである男性の先輩がすぐにフォローしてくれた。

「本当に、今の手術室はスタッフがいなくて、みんな倒れそうになっていたんだ。○○さんがきてくれてすごく嬉しい、本当に助かる!ありがとう。最初は本当に右も左もわからないと思うから、同期のKさん(仮名)の婦人科チームに入って」

 頼られるとすぐに喜ぶ私。

 土俵が変わっても、素直に「助かる」「ありがとう」と彼は心の底から言ってくれた言葉。それが不安しか無かった私を救ってくれた。
 しかも、私はこのKさん率いる婦人科チームで看護師の尊敬する人間の一人であるOさん(仮名)と出会う。




 Kさんは私と同期入社で、苗字が近いこともあり、新人研修か何かでグループが一緒だった。あの当時は『新人から手術室なんて絶対きつくて私にゃ無理だな』と思っていたが、彼女は四年半の経験値で既に全手術の器械出しと指導をマスターしていた。
 しかも、有り難い事に彼女は毒々しいこの女の世界に転がっている人を蹴落とすタイプではなく、私を初めて指導してくれた先輩に似ており、ふわっとした柔らかい空気があった。

 はじめまして、と挨拶すると、「○○さん、私とグループ研修で一緒だったよね?」と笑いながら話しかけてくれた。え、そうだっけ。と記憶を遡るが、朧げに覚えているのは彼女の持つ手術に対する生かす為の看護と、死を待つ人に対する私の看護の違いで討論した気がする。
 頭のいい人だな〜という印象と顔は覚えていたが、私は昔から必要な事しか覚えないので、他の職場にいるスタッフは同期だろうとあまり覚えていなかった。

 彼女が一通り婦人科チームの内容と、当時婦人科チームにいたスタッフを紹介してくれた。Oさんはいつも眠そうで機嫌が悪かった。男よりも男勝りで、見た目は細身の女性なのに、喋るとヤンキーよりも怖い。
 もう一人のおばちゃんはうちの母と昔働いていた“曲者“言い方がキツイのでいつも医者と患者と揉めることが多く、昔働いていた手術室に飛ばされた内視鏡室出身のベテランさん。

 顔を見た瞬間、濃い。こりゃあ、やっていくの無理じゃね?と思った。さらにもう一人若い子と、天然のおねーさんが1人。



 何を始めるにも、まず1日。朝の挨拶は大きな声で。手術室は音がでかい。ホウレンソウは命取りにつながる。小声で小心者だった私は胃を痛めながらまずでかい声で挨拶することから始めた。
 3日目。慣れない集中治療室からの引き継ぎと、医者からの叱咤。ライト合わせろと怒鳴られても術野が全く見えない。週末はKさんが毎週後輩の器械出しの指導と、私の外介助における働き方をみっちり教えてくれた。
 それでも、ライトは合わない。医者の背中に反射してずれる。結局、私は記録だけにしてくださいともう一度お願いして、外介助から外してもらった。

 さらに1週間。胃の痛みは悪化。朝が来る度に回転する目眩と吐き気を覚えた。それでも病院に行かなきゃいけない。自分を叱咤して車を走らせる。
 私のように記録しかできない人間も、交代制で「ベル当番」というものにあたる。本来新人は3ヶ月間猶予があるのだが、私は病棟経験者で記録も熟知している。
 特に抜けがないから、当番の「記録係」としてもしかしたら呼ばれるかもね。と、週一度のベル当番に回された。これがさらに胃の痛みを悪化させる。
 チームメンバーは最初に優しい言葉をかけてくれた男性の主任さんで、他は一年下の可愛い外科リーダーの女の子と私だった。
 ただでさえ調子が悪いのに、不眠が悪化した。ベルがいつ鳴っても困らないよう、夜は無音にして過ごす。恐怖で胃に穴が空きそうだった。
 その日、私以外の2人のスタッフが緊急手術で呼び出しされた。私は記録係で呼ばれるかとヒヤヒヤしていたのに、大した手術じゃないから、と呼ばれなかった。

 どうせ呼んでも使えないし。

 そう言われたような気がして、益々仕事が嫌いになった。元々手術室は私の行きたい場所じゃない。ここに私がやりたい看護はない。もうどうでもいいや。

 投げやりになり、どうせ目しか見えない職場。記録は流れ作業、どうせ術野は見えないしライトは合わない。麻酔科の医者はハードワークで常にストレスが溜まっており、どうせ八つ当たりの対象は全て私。内科上がりだからって無能で使えなくて、新人さんにまで技術を置いていかれる厄介な私(ババア)。

 次の勤務移動はいつなんだろう。ふとそんな事を考え、帰り前に勤務表を見ていたら時間外のグラフに愕然とした。
 私だけが20時間ちょっと。他のスタッフは当たり前に40時間を超えている。はっきり言って異常だ。
 そんな中でもO先輩は、「まあ仕方ないんだよ。ここは、そういう所だし、それにさ、わかんないでやられても困るしさ」

 先輩の言う事はもっともだった。分からないまま手術に入るなんてとんでもない。私はいくら勉強しても勉強しても、手術の場所がさっぱりだった。ああいうのはグロい世界だが、術野を見ないと何も分からない。
 手術室を最初から好む人間は相当変わり者だと思うが、そういう人がいないと手術は成立しない。そして、手術が好き!という看護師がいないと成立しない。みんな家庭がありながらのこの時間外。恋人と遊ぶ時間もなく、ただ青春を手術室へ没頭する人々。正直、何が楽しいんだろうと冷めた目で見ていた。

 そこで事件が起きる。メンタルが病んだ私は相当声が小さくなっていた。帰りに怖いおばちゃん看護師に「おつかれさまでした」と頭を下げて休憩室を出ようとすると、吠えられた。

「あんたは、先輩に挨拶のひとつもできねぇのか!?」

「え、言いましたけど……」

「あんたのお母さんはハキハキしてて、あれだけバリバリ仕事もできるのに、なんであんたはそうやってウジウジ何も喋らないんだろうね。新人の子よりひどいじゃないか!」

 いや、挨拶したってよ。

 はっきり言ってこのおばさんは私の大嫌いな人なので、正直むかついた。更にお前がうちの母を内視鏡室でいびり虐めたくせに、医者とそつなく会話し、何でも仕事が出来る母だと知って急に手のひらを返してマサさん、マサさんと懐いたのも知っている。

 あちこちに書いているが、元々自分はやりたくて看護師になったわけじゃない。道が無かったから今も悩みこの場所に立っている。
 一番嫌いなのが、母との比較だ。
 母は30年ここで働いているし、医者からもスタッフも患者からも絶大な信頼と人気がある。そこと比較すんなよ、といいたい。私は父に似て内向的。そもそも、自閉気味なのに明朗快活な母と比較されたって困る。

 私はおばさん看護師のこの一言でまたメンタルを病んだ。声が出なくなったのだ。


→2へつづく

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