【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第22話 忍sideー 襲撃
「ねえねえ、今度温泉旅行に行きたいよね」
「そうだな……」
「箱根くらいだったら行けるよね、日曜日はママさん達休み欲しがるから、平日なら休み合わせられるし」
「ああ……」
俺は澤村の話を聞きながら今日弘樹に怒鳴られた事を反芻していた。
あいつは普段全く怒らない癖に、俺と麻衣の話になると人が変わる。
今の俺に麻衣を守るチカラは無いし、あのシノブって奴が麻衣を守ってくれるのならばそれに任せた方が幸せではないか。
「んもう! 忍、私の話ちゃんと聞いてる!?」
「へーへー、ちゃんと聞いてるよ、箱根に行きたいんだろ? ドライブだろうと温泉だろうと何処だって行きますよお姫様」
「タバコ。灰落ちるよ?」
「う、わわっ!」
かなりぼんやりしていたらしい。火をつけたまま俺の指に挟んだマルボロは長い灰になっていた。今澤村に指摘されなかったら持ち手部分で火傷していたかも知れない。
「──ねえ忍、何かあった?」
「そうそう、健康診断の結果で藤堂先生からタバコの吸い過ぎだって怒られたんだよ。左の肺がどーのこーのうるせぇんだ。口寂しいからコレがねえと落ち着かないってのによ」
タバコは一種の麻薬のようなものだ。俺の身体に染みついて抜けられない。弘樹のように子供の為に禁煙するのとは訳が違う。
現に澤村もタバコを吸っている。流石にこいつも藤堂先生にあれこれ言われたみたいで、電子タバコに変えたらしいけど。
「マルボロ、きついのによく吸ってるよね。メンソールにしないの?」
「あ〜……一回知り合いから貰って試したんだけど物足りなかった。メンソールって勃ちが悪くなるって噂があるから、あまり手え出したくなくてよ」
「うっそー、忍なんて万年発情期じゃない!」
ケラケラ笑う澤村の笑顔を見て俺はほっとした。麻衣の事でまたウジウジ悩んでいるのを彼女に勘付かれたくはない。
「今度マイで試してみっか。俺がメンソールでもイケるかどうか──」
「え〜、やだあ、ホントにダメだったらショック。いいよマルボロで。でも藤堂先生に言われたなら少し本数減らしていこ? ほらあ、お互いに健康で居なきゃ。お金で健康と愛は買えないんだよ!」
「マイもまともな事言うじゃねえか。じゃあお前の電子タバコでも吸ってみるかな?」
「うんいいよお、これが本体ね」
澤村をマイ、と呼ぶようになってから彼女の機嫌は嘘みたいに良くなった。
「どう? 万年発情期くん。初のアイコスは」
「……やっぱ物足りねえ。こう、ガツンとくる刺激が欲しい」
「本当、忍はわがままな男じゃのう。しょうがないから帰りに他のタバコも見てみようか」
物足りなくてアイコスは無理だ。真っ白い煙を吐き出して、嫌な事を何もかも消してしまいたい。
マルボロを吸っている時、あの白い煙が少しずつ空気と溶けていく様子を見ていると、モヤモヤした頭を空っぽにできる気がするんだ。
────
色々なタバコを探したが、やはり値段と効果を考えてマルボロで落ち着いてしまった。
禁煙場所が増え過ぎてしまい、迂闊にタバコを吸える場所がない。喫煙者にとって本当に肩身が狭くなってしまった。
「タバコってあんなに種類あるんだね。ほら、よくコンビニでも何番下さいって言うじゃない? 私なんて安いからネットで買っちゃうけど紙タバコ沢山見たね〜」
「銘柄っつーか、好みの問題じゃねえかな。ダチはマイルドセブンだし」
「あの星のマークついたタバコ可愛いよね、あれは吸わないの?」
「セブンスターか? 箱も俺はマルボロが一番好きなんだけどなあ……」
なかなか歩いても喫煙所が見つからず、俺達はとりあえず落ち着ける場所を探した。
裏道を歩いても意外と人が多い。本当に新宿は朝夜関係なく人が絶えないものだ。
新宿中央公園の方へと足を向けた。この街は特殊な場所で、男女問わず横たわっているだけだとあまり事件にならない事が多い。ただの深酒が多いからだ。
しかし不審な血の匂いに澤村は「大変」と声を上げ、倒れている女性に駆け寄った。
「大丈夫ですか、何があったんですか?」
「あ、あんた達も逃げた方がいい」
女性は脇腹を押さえていた。指の隙間からじわじわと血が滲んでいるのが見える。
「おいおい……通り魔かよ、救急車は?」
「もう呼んでる。早く逃げないと……」
倒れているもう一人の女性も俺達に逃げるよう進言してきた。俺は周囲に殺意が無い事を確認し、澤村の手を握りしめた。
「おい、マイ逃げるぞ」
「で、でも、この人達を置いてなんて──」
俺がマイ、と呼んだのが悪かった。やっぱり名前でなんて呼ぶべきじゃなかったんだ。
その名前に反応した暗闇から出て来た女がもの凄い速度で澤村に襲いかかった。
「きゃあ!?」
「マイだと!? 貴様さえ居なければ! 貴様さえ居なければあああっ!」
狂った獣のような声を放つ女は澤村に強烈な殺意を向けていた。澤村に、というよりはマイという名前に何か深い憎しみを抱いているらしい。
刃の鋭いナイフに気づいた俺は、女の手首を掴み、激しい取っ組み合いになりながらそれを奪い取った。
「ちくしょう放せ……! 放せ!! マイを、マイをぶち殺すんだ……!」
「何が気に入らねえんだよ! 澤村は無関係だっての」
暗闇なので女の顔は分からなかったし、何故マイという名前に過剰反応したのかが気になる。
倒れている相手は服装から見てキャバ嬢。麻衣はマキという源氏名を使っているので、本名を知らせていないはず。
女はさらに激しく暴れ、激昂した。理性が働いていないのか、とんでもない力だ。
「あの女の所為で私は破滅したんだ……タバタマイ。絶対に許さない……!」
タバタマイ。
間違いなくこの女は麻衣の関係者だ。麻衣はアサクラマキという名前を使っていた。
「麻衣が何したって言うんだよ」
「私の客、荵様もあの女は全て奪った。店長まで牛耳ってあの女を虐めた全てを粛正した。もう店は終わりだ、私も生きていけない……」
女の言い分は全く同情出来るものでは無かった。麻衣は他人の客を奪っていないだろう。そういう人を陥れるタイプではない。
それに粛正ってのも、あいつが店長を牛耳ったのではなく、シノブって奴が勝手に行ったと思われる。
そしてさらっと言ったがこの女は麻衣を虐めていた。そこで定食屋で泣いていた麻衣の姿がピッタリ重なる。
一体、麻衣は何人の女に嫌がらせを受けたのだろう。生きる為とは言え、ずっと我慢していたなんて。
「やっぱり俺のせいか」
麻衣を連れてあの家から逃げ出す勇気も覚悟も俺には無かった。決して麻衣の学費を稼ぐ為なんかじゃない。俺を煙がる母さんと、家庭を顧みない父さんから一秒でも早く早く逃げたかっただけだ。
そう、俺は逃げた。
何よりも大事な麻衣を置いて。
もしもあの時、麻衣を連れて逃げていたら? 麻衣は大学を卒業しただろうか? 誰かに虐められたりせずに、キャバクラではなく違う仕事に就いただろうか。
それこそ、誰かと恋愛をして、結婚して、弘樹ん家みたいにガキが出来て……そんな普通の幸せを手に入れていたのではないか?
生きる金を稼ぐ為に夜の街に飛び込んだ麻衣の選択を俺は否定出来ない。身一つで親から逃げ出して、生きる為には金が必要だ。
ふと女を拘束する手を一瞬弱めた瞬間、左脇腹にとんでもなく鋭い痛みが走った。女が俺の拘束を解き、ナイフを俺に突き刺したのだ。
腹の周りが燃えるように熱い。代わりに身体は一気に冷えて消えていった。
澤村が大声で悲鳴を上げた。それと同時に警官らしき影が女を左右から拘束したように見えた。
あれ──おかしい。澤村どころか、狂った女、倒れている女性、誰の声も聞こえない。
俺の視界は、真っ暗になった。