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【第9章】組織の圧力

橘薫はこれまで、藤堂の汚名を晴らすために行動してきた。しかし、その動きは一向に結果を伴わず、問題を指摘するたびに思うように進展しない。ついには、社内の誰もが関わりたくないと思い始めていることを感じ取っていた。

数か月が経ち、ようやくコンプライアンス室から連絡が来た。その電話を受けたとき、橘薫は胸を躍らせたが、その期待はすぐに裏切られることになる。

「橘さん、少しお話しできる時間をいただけますか?」

電話の向こうの声は冷たく、事務的だ。橘薫は少し躊躇したが、電話を切るわけにはいかないと決意して応じた。

「もちろん、今すぐ伺います。」

コンプライアンス室に足を運んだ橘薫を迎えたのは、担当者の一人、山田であった。初めて顔を合わせる彼女は、橘薫をどこか冷ややかな目で見つめていた。

「橘さん、少しお待ちください。」

山田は資料を取り出しながら、淡々と話を続けた。

「実はですね、社内であの件について、少し誤解を招くような噂が立っているようです。」

橘薫は目を見開いた。「噂?いったいどんな噂ですか?」

山田は手元の資料を見ながら言った。「あなたが、会社の内部に対して過激な行動を取っているというものです。藤堂さんの問題に関して、あまりにも感情的になりすぎている、と。」

「感情的だなんて、私がしているのは正当な業務です!」橘薫は声を荒げたが、すぐに気を取り直して冷静になろうとした。

「それは理解しています。でも、会社としては、過激な行動を取る人物に対しては、慎重に対応する必要があります。だからこそ、私たちは今、少し時間をかけて状況を見守ることにしました。」

その言葉に、橘薫は胸を締め付けられるような思いがした。こんなにも自分の信念が否定され、無力さを感じたのは初めてだ。

「時間をかけるって、結局そのまま何もしないということですよね?」

橘薫の声には、深い失望と怒りが滲んでいた。

「橘さん、その…あの資料、池田さんについてのもの、あれをどうするか決めました。」

「資料ですか?」橘薫は驚いた。「あの証拠を消すなんて、そんなこと…」

「そうです。」山田は淡々と答えた。「上層部から指示がありました。この資料は、この件に関してはもう手を引くべきだというものです。これ以上、会社にとって不利益になるようなことは避けるべきですから。」

「不利益?」橘薫は言葉が詰まった。「でも、これが不利益になるのは、藤堂さんを不当に追い出すことじゃないですか。私たちが黙っていていいんですか?」

「これはあたなのためです。」山田は冷たく言った。「ここで大事なのは、会社の方針に従うことです。それが最終的にあなたのためにもなるんですよ。」

その言葉に、橘薫は耳を疑った。最も信じていたはずのコンプライアンス室から、こんなにも理不尽な言葉が飛び出すとは思わなかった。

「でも、どうしても納得できません。」橘薫は最後の力を振り絞って言った。

山田は無表情で立ち上がり、扉に向かって言った。「納得できるかどうかは別として、これが現実です。私たちにできるのは、上からの指示に従うことだけです。あなたも、どうかそのことを理解してください。」

橘薫は立ち尽くし、部屋を出るとき、山田は続けて言った。「気をつけてくださいね。社内では、あなたのことを過激派だと思っている人が多いですから。」

その言葉が胸に重く突き刺さり、橘薫は息を呑んだ。まさか、自分がこんな風に追い詰められるとは思っていなかった。

彼女が部屋を出るとき、ふと耳にした言葉があった。「彼女は、会社のために動いているつもりでも、実は自分の正義を押し付けているだけなんだ。」

その声は、どこかで聞いたことがあるような気がしたが、振り返ることなく歩き出した。


橘薫はいつものように小澤とランチを共にしていた。普段は冷静で控えめな彼が、今日は珍しく言葉少なで、どこか落ち着かない様子を見せている。薫は小澤君の様子に気づき、軽く問いかけた。

「小澤君、どうかしたの?」

小澤君はしばらく黙っていてから、思い切ったように口を開いた。

「橘さん、実は…少し話があるんです。」

橘薫は少し驚きながらも、彼がそう言う時は何か重大なことがあると察し、真剣に耳を傾けた。

「うん、何かあったの?」

小澤は顔を曇らせ、無理に笑おうとしたが、うまくいかなかった。ため息を一つついてから、静かに言った。

「藤堂さんの件、もう限界なんです。」

「限界って…どういうこと?」

橘薫は小澤を見つめる。普段から冷静で感情をあまり表に出さない小澤が、今、こうして葛藤していることに気づいていた。

「藤堂さんのために何かしたいと思って、ユニオンにも行ったんです。でも、やっぱり無理だった。圧力がすごすぎて…。俺、若いから何かあればすぐに言うようにって言われて、でも、言えば言うほど状況が悪化して。結局、俺が何をしても変わらないんだって思うようになったんです。」

小澤は言葉を詰まらせ、目を伏せた。橘薫はその言葉の裏にある苦しみを感じ取り、言葉を選びながら返した。

「そう…。そうだったんだ。小澤君、あなたがここまでしてくれたこと、私はちゃんと覚えているから。」

「橘さん、俺、もともと感情で動くタイプじゃないんです。自分の仕事をきっちりやって、あとは淡々と過ごしてきた。それなのに、今回は藤堂さんの姿勢を見て、何かしなきゃって思った。でも、もう無理だって…。俺がいくら頑張っても、何も変わらないって思うんです。」

小澤は肩を落としながら、心の中で何度も葛藤している様子だった。橘薫はそんな彼を見つめ、しばらく沈黙を保った後、静かに口を開いた。

「小澤君…。あなたがここまで辛い思いをしていたなんて、正直言って知らなかったわ。でも、無理して続ける必要なんてないのよ。今のあなたにとって何が一番大切か、それを考えた結果なら、私はその決断を尊重するわ。」

小澤は深くうなずき、何かを決意したような顔を見せた。

「でも、藤堂さんの汚名を晴らすことができないこと、俺は後悔しないようにしたい。今はもう無理でも、どこかでその思いを忘れずにいられれば、それだけで…。」

橘薫はその言葉を胸に刻みながら、少しだけ微笑んだ。

「ありがとう、小澤君。あなたがいてくれたから、私も少しでも前に進めたし、今もその思いを胸に頑張っているわ。」

小澤は少し照れたように笑い、そして席を立った。

「橘さん、ありがとうございます。僕もできるだけ、自分の仕事をちゃんとやります。」

橘薫は、小澤の背中を見送りながら、心の中で深く感謝の気持ちを抱いていた。彼が見せた勇気と、どんなに苦しい状況でも自分の信じる道を選んだ姿勢に、彼女は何度も励まされた。しかし、同時に、組織の圧力がどれほど強大であるか、そしてその中で小澤が限界を迎えてしまったことに、橘薫は痛感していた。それでも、彼女は決して諦めないと誓った。このまま間違ったことが続くことを許すわけにはいかない。どんなに自分が一人でも、彼女は立ち向かい続けるのだ。小澤が選んだ道を尊重しつつ、彼女は自分の信じる正義を貫く覚悟を固めた。



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