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【第6章】捏造された罪

守から正式に藤堂の後任を命じられた谷であったが、結局のところ状況は何も変わらなかった。藤堂の抜けた穴を埋めるどころか、何の指示もなく、業務の進展は一向に見られない。それでも月次の報告は必要であり、その報告作業は当然のように橘薫や桐生に丸投げされた。

 月次報告の場では、役員から厳しい指摘が飛んだ。
「この進捗は一体どうなっているんだ? 全く改善が見られないじゃないか!」
「このままでは取引先からの信用を失うぞ。何か具体的な対策は考えているのか?」

 谷は相変わらずの態度で、まるで他人事のように「ええっと……そうですね、皆さんの意見を聞きながら進めていきたいと思います」と言葉を濁すばかりだった。橘薫はその無責任な発言に歯を食いしばった。

 上から厳しい指摘が入るたびに、谷はまるで他人事のような態度をとる。「これ、どうするんですかね?」と曖昧な言葉を発しながら、結局は上からの指示をそのままオウム返しに部下へ伝えるだけ。問題の本質に向き合うことも、改善のために動くこともなく、ただ責任だけを押し付ける谷の姿勢に、橘薫は何度も歯がゆさを覚えた。

 そんな中でも、橘薫、桐生、小澤はこれまで藤堂と共に積み上げてきた仕事を最後までやり遂げようと奮闘していた。単なる業務遂行ではなく、彼らの目的は藤堂の復帰を実現することでもあった。理不尽な異動によって奪われた本来の職務と誇りを取り戻すために、彼らは日々死ぬ思いで仕事をこなしていた。

 そんな慌ただしい日々の中で、橘薫はふと気づいたことがあった。藤堂の異動の原因を作った張本人――池田が、あの一件以来まったくオフィスに姿を見せていないのだ。

 最初は気にも留めなかったが、冷静に考えれば不自然だった。池田の指導係であり、橘薫の同期でもある桐生にそれとなく尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。

「池田、ずっとリモートワークしてるよ。あの件以来、オフィスに顔を出しづらいってさ」

 その言葉を聞いた瞬間、橘薫の胸の奥に苛立ちが湧き上がった。そもそも、自分で蒔いた種ではないか。そんなことになるとわかっていたら、なぜあんな行動を取ったのか。おかげで藤堂は不当な処分を受け、残された自分たちはその尻拭いに奔走しているというのに。

 もっと言えば、まったく余計なことをしてくれたものだ。藤堂がどれだけの想いで仕事をしていたのか、少しでも理解していたのなら、軽率な行動には出なかったはずだ。

 おそらく、池田自身もそのことを痛感しているのだろう。だからこそ、オフィスに来づらくなったのだ。橘薫や桐生たちの心情を察しているのか、それとも単に自分が居づらくなっただけなのかはわからない。しかし、橘薫にとって重要なのは、池田がどう思っているかではなく、藤堂を取り戻すことだった。

 彼女は改めて決意した。谷の無能さに苛立ち、池田の無責任さに怒りを覚えても、それを原動力に変えて前に進むしかない。自分たちがやるべきことは、ただ一つ。藤堂を、この場所に戻すことだ。


そうこうしているうちに、何も変わらない日々が淡々と過ぎていった。

 そんなある日、橘薫はコピーを取るためにオフィス内を歩いていた。その途中、池田と仲の良い派遣社員・高崎の席の後ろを通りかかったときだった。

 ピコンッ!

 チャットメッセージが届いたとき特有の電子音が響く。その瞬間、橘薫の視線は無意識のうちに高崎のパソコン画面へと向かっていた。画面には、新着メッセージの通知が表示されていた。メッセージの内容までは見えなかったが、そこに映るアイコンには見覚えがあった。

(……池田?)

 橘薫の胸にわずかな警戒心が生まれる。池田はあの一件以来、オフィスには姿を見せていなかったはず。しかし、彼女は未だに誰かとやり取りをしている。しかも、それが高崎であることに引っかかるものを感じた。

 気になった橘薫は、コピーを取った帰りに高崎の席に立ち寄り、さりげなく尋ねた。

「高崎さん、池田と連絡取ってるの?」

 高崎は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。

「ああ……まぁ、ね。ちょっとした近況報告みたいな感じで」

「近況報告?」

「うん。あの件以来、池田さん、ずっとリモートでしょ? オフィスの様子が気になるみたいでさ……」

 高崎の口ぶりから、池田が頻繁にオフィスの状況を気にしていることがうかがえた。橘薫や桐生、小澤たちの動向、池田に対する周囲の雰囲気。池田は、それらを高崎を通じて把握しようとしていたのだ。

「……つまり、池田はオフィスの風向きを探ってるってこと?」

 橘薫の声がわずかに鋭さを帯びた。高崎は苦笑しながら肩をすくめた。

「まあ、そんなとこかな。正直、池田さんも気にしてるみたいだよ。やっぱり、あの件があってからみんなの視線が気になるんじゃない?」

「だったら、最初からあんなことしなければよかったのに」

 思わず口をついた言葉だった。高崎は少し言いづらそうに口を閉じた。

 橘薫の中で、池田への怒りが再びじわじわと広がる。結局のところ、池田は自分の蒔いた種に怯え、オフィスに戻ることもできずに影から状況を探っているだけだった。それなのに、自分たちは藤堂のいない職場で必死に仕事をこなし、理不尽な環境に耐えている。

(……ふざけないで)

 橘薫は拳を握りしめた。池田がどう思おうと関係ない。自分たちのやるべきことは、藤堂を取り戻し、正しい評価を勝ち取ることだ。

 そのために、もっと真実に近づかなければならない。

高崎の席を離れようとしたその時、橘薫の目に、ふと高崎のパソコン画面が映り込んだ。

 そこには、池田とのチャット履歴が開かれていた。

 何気なく視線を落とした瞬間、橘薫の全身が凍りついた。

『病んだことにしておきます。』

 目を疑った。

 池田は、例の一件以来、心を病んだと会社に伝え、リモートワークを続けていたはず。しかし、その言葉はまるで演技だったと告白するかのようなものだった。

 指先が冷たくなり、脳が一瞬思考を停止する。

 さらにスクロールされたチャット画面には、藤堂を嘲笑するような文章が並んでいた。

『藤堂って、ほんと真面目すぎて笑えるよね。』 『あんなやつ、飛ばされて当然でしょ。』 『てか、あのオフィスの連中もいつまでもしがみついててウケるんだけどw』

 池田の言葉に、高崎も軽い調子で返信していた。

『だよねー。あの人たち、まだ藤堂を戻そうとしてるらしいよ?必死すぎw』 『橘とか桐生とか、正義感こじらせててマジでウケるww』

 悪ふざけにもほどがある。

 橘薫の視界が一瞬、暗転する。

 怒りが沸騰するよりも前に、頭が真っ白になった。

(……何これ。)

 手が震える。

 これが、池田の本性なのか。

 このチャットを見た瞬間、橘薫の中の何かが決定的に変わった。

 すぐさま桐生と小澤にこの内容を共有する。

「……ちょっと、これ、見て。」

 スマートフォンに転送したスクリーンショットを見せると、桐生は目を見開き、小澤は息を呑んだ。

「……マジで?」 「……最悪すぎる。」

 三人はその場で話し合った。

 どうすべきか。どう動くべきか。

 結論は一つだった。

「守さんと谷に、この証拠を持って直訴しよう。」

 橘薫の声には、これまでにないほどの決意が込められていた。


翌日、橘薫たちは守部長と谷課長のもとへ足を運んだ。

「これは、あまりにもひどい内容です。」  橘薫はスマートフォンを差し出し、スクロールしながらチャットの内容を見せる。

 守は眉をひそめ、谷は目を細めた。

「……なるほどな。」  守は腕を組み、ふうっと息をついた。

「これは、上に報告すべきですね。」  谷が静かに言う。

「では、すぐに処理を進めていただけますね?」  橘薫が問いただすと、守は「まあ、一応ね」と曖昧な返事をする。

 谷も、「上と相談して、対応を考えます」と、どこか他人事のような口調だった。

 それから数日が経った。

 だが、何の進展もない。

 橘薫たちは業務の合間を縫って何度も状況を確認したが、守も谷も「今、確認中だから」と曖昧な返答を繰り返すばかりだった。

「結局、動かないつもりなんじゃ……?」  桐生が苛立ちを隠せずに言う。

「さすがにそれはない……と信じたいけど。」  小澤も不安げな表情だ。

 だが、橘薫の胸には、嫌な予感が募る。

 彼らは本当に、藤堂の汚名を晴らす気があるのか。

 それとも、このまま時間を引き延ばして、なかったことにするつもりなのか。

 橘薫のフラストレーションは、日々膨れ上がっていった。



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