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【第8章】池田の誤算

部内の空気は、まるで湿気を吸った布のように重く、閉塞感に満ちていた。藤堂明の追放劇がきっかけとなり、全社員がその事態をどこかで感じ取っていた。池田は、藤堂を追い出せば自分の立場が強くなると確信していた。しかし、そんな池田の思惑はまるで裏目に出た。

「藤堂さんがいなくなって、静かになると思っていたのに…」池田はその思いを心の中で繰り返しながら、今の自分を見つめていた。実際、藤堂がいなくなったことで、確かに何もかもが一時的に静かになった。しかし、その静けさの裏側で、藤堂明に対して深い尊敬を抱く若手社員たちの声が高まりつつあった。

「藤堂さんのやり方を尊敬していた。だから、池田さんがそんなことをするなんて…」

「結局、藤堂さんが必要だったんだよな。あの人がいなくなったから、仕事が回らなくなってるじゃないか。」

そんな声が少しずつ広まり、部内の空気は次第に池田に対する不満で満ちていった。若手社員たちは口々に、池田の不真面目な仕事態度と、その陰で行われていた藤堂の追放工作に不信感を抱き始めていた。池田はその不満の波に圧倒され、次第に居場所を失っていった。

そんな状況に耐えきれなくなった池田は、最終的に自ら異動を申し出た。その知らせが社内に広まったとき、池田は何かしらの救いを求めるような気持ちでいた。だが、その異動の裏には彼女が持っていた最後の「誤算」が隠されていた。

徳山は、その事態に対して一切手を貸すことなく、まるで他人事のようにふるまった。彼の手がけた藤堂追放計画も、今ではすっかり水面下に沈んでいた。証拠を残さず、池田が勝手に動いたかのように見せかけるその巧妙さ。徳山はその後も、池田がどんな立場に立たされようと、完全に関与しないふりをしていた。

「池田さん、異動するんですか?なんだか、ちょっと寂しいですね…」と徳山は、わざとらしく言いながら微笑んだ。しかしその微笑みの奥には、まるで自分の意図通りにことが進んでいることを楽しんでいるかのような冷徹さが覗いていた。

池田は、リモートワークが続いていたため、会社に足を運ぶことはほとんどなかったが、異動に際し、自分の荷物を取りに来た。その日、ふと徳山と顔を合わせることになった。

「徳山さんがあおったくせに…」池田は、心の中で吐き出すようにぼそりとつぶやいた。声に出すことはなかったが、その言葉は彼女の中でずっと渦巻いていた。「私がここまでやるつもりはなかったんだけど…ちょっと困らせてやればくらいだったのに。」そのつぶやきには、やりきれない思いと、どこか後悔の気持ちが混じっていた。池田は黙って荷物をまとめ、部屋を出ようとした。

そのとき、橘薫がたまたまその場に立ち寄り、池田が足早に去る姿を見た。彼女が立ち去る直前、ぽつりと漏れた池田の言葉が耳に入った。

「徳山さんがあおったくせに…」

橘薫はその言葉に驚き、思わず足を止めた。「えっ、徳山さん?」藤堂を目の敵にしていた徳山が、池田にどれだけ影響を与えていたのか。藤堂の追放に関与していたのは池田だけだと思っていたが、その背後には徳山の影がちらついていた。

「ちょっと困らせてやればくらいだったのに…」池田の言葉がさらに響く。橘薫はそのとき、何かが腑に落ちた。徳山が何かの影響を与え、池田を動かしたのだと。そして、その先には、まだ誰も知らない深い陰謀が隠されていることに気づき始めた。

その後、橘薫は池田の異動を目の当たりにし、また新たな疑念を抱えることとなった。徳山の狡猾さ、そして池田の無自覚な行動がどれだけ会社を混乱させていたのか、それは彼女にとって新たな課題となった。

橘薫の目に、今までとは違った覚悟が宿るようになったのだった。



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