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ベスハチとの出会い③ 進化した前身バンドとライヴ現場の世界・中編

【前回記事↓】ベスハチの前身バンドで始めるライヴ現場の世界

前回、
Elizabeth.eight(エリザベス・エイト)こと
ベスハチ の、
前身バンドと出会った初期の諸々について書いた。

今回は、
ベスハチの前身バンド
the lovemachine (ラヴマ)』
が、
Elizabeth.eight(ベスハチ)』
に なるまでと、
並行して体験した音楽遍歴とを書いていく。

相変わらず記憶を頼りに書いていくので
やや記憶の怪しい部分はあるかとは思うが、
残された資料と併せて文字を起こせたらと思う。

わたしがラヴマからベスハチを見ていく過程での
メインの時代の話になる。


如何にしてベスハチの音楽にたどり着いたか。
わたしの通ってきた道と少しでも道が重なるのであれば、
これからこれを読むあなたには、
ベスハチを好きになる素質や素養がある。
そう思う。






▼ 上京と共に音楽番組からの開拓


2002年12月の年末ライヴ次点で
無期限活動休止となったベスハチの前身バンド、
ザ・ラヴマシン

出会ってからの数ヵ月は、
ライヴハウスという未知の世界であろうと
不安を押し退けて飛び込んでしまえるような、
まるで何年も記憶に残る強烈な夢の中の出来事のようだった。


晴れて自身の受験も終わり、
そんなラヴマのライヴの代わりと言わんばかりに
某有名オンラインゲームにハマりながら、
しばらく音楽生活からは少し離れて暮らしつつ、
卒業文集では BUMP OF CHICKEN について語り荒ぶったりしつつ過ごし。


晴れて上京に至った2003年。

上京してからは自宅のTVにCS放送を導入し、
念願だった音楽専門チャンネルである
スペースシャワーTV(以下スペシャ)
の視聴が叶うこととなった。

(※かつてスペシャで BUMP TV という BUMP OF CHICKENの冠番組 が放映されており、上京の1年前に番組終了していたが、地上波では中々お目にかかれないバンドのため痕跡だけでも味わいたかった)


上京したての頃、
このスペースシャワーTVでは
熱血!スペシャ中学(スペ中)』
という番組がスタートしていた。

いとうせいこう を講師(先生)として、
それぞれバンドやソロで音楽活動をする生徒役と、転校生として来るゲストミュージシャンと共に様々な音楽史や音楽雑学などを授業形式で学びながら未来のビッグ・アーティストを目指す
といった音楽バラエティ番組である。

当時のこの番組に生徒役で出演していたのは、
当時 SUPER BUTTER DOG100s 等のバンドでキーボード担当として活動し、
現在 レキシ として活躍する 池田貴史
当時 Jackson vibe のヴォーカルとして活動し、
現在はラジオパーソナリティやタレントとしても活動している グローバー義和
ソロミュージシャンである スネオヘアー
Scoobie Do のドラム オカモト"MOBY"タクヤ
麻波25 のMC HUNTER
NANANINE のギター 大野憲太郎
BEAN BAG のヴォーカル YUMI
グラビアアイドルの 小向美奈子
タレントの 安めぐみ 等。
時折 ハナレグミ永積タカシ が レキシ のメンバーでもある シャカッチ として忍者姿で出演することもあった。

当時 地元から都内の学校に通っていた友人Kが
スネオヘアーを好んで聴いており、
いつしか彼の出演するスペ中を目当てに毎週木曜に我が家へ遊びに来るという習慣が出来、
木曜会』が発足された。
(※たまに金曜になる)
要はスペ中を観ながらの茶飲み会である。


スペ中を観つつ過ごして間もなくの頃。

友人Kが唐突に 
スネオヘアー のライヴに誘ってきた。
それも いきなりの遠征大阪公演である。

突然過ぎる遠征の誘いに戸惑うも、
スペ中で友人Kの好きなスネオさん
という思いで彼の姿を見守っていた身としては
二つ返事でOKするのだった。

スネオヘアー は この頃
ウグイス』という曲のシングルをリリースしたばかりであり、
この大阪公演も初の全国ツアーの一環だった。

そうして、
200人規模のライヴハウスしか行ったことのなかったわたしは友人Kに連れられるまま、
大阪の老舗のライヴハウスである
大阪バナナホール へ遠征に。

ラヴマのライヴによって数ヵ月はライヴハウスの出入りを経験していたおかげか、
遠征でも臆せず楽しむことができた。

ラヴマと共に歩み始めた音楽の道は、
この方向で良いのだ
と 囁いてくれるかのようだった。



こうして、
スペースシャワーTV
 の スペ中のような番組や、
MUSIC ON! TVMTV Japan などなどの
CSの音楽専門チャンネルで音楽情報を得つつ、
時にはバンプ目当てに音楽雑誌を買いつつ、
音楽と共に新生活がスタートする形となった。

それらは音楽専門チャンネルというだけあり、
多種多様なミュージックビデオ(MV)が垂れ流されていた。

そんな中、
ひときわ存在感を放っていたのが、
ミッシェル・ガン・エレファント
太陽をつかんでしまった
という曲のMVであった。

ここで ようやくミッシェルの存在を思い出し、
早速この曲が収録されたアルバム
SABRINA HEAVEN
を手に取った。

【↓参考記事】ミッシェルと出会った青い春

この前後のアルバムはどちらかといえば、
所謂 
ロック好きから認知されているミッシェル
というような、
ガレージ・パンクな楽曲とは異なるテイストになってはいるものの、
この辺りのミッシェルの音楽に触れると、
絶対的で、他の追随を許さぬ程の格好良さに頭をぶん殴られるような感覚になるとともに、
音楽的にもサウンド的にも
ようやく本命が見つかったかのような気持ちになった。

この前年にハマっていたドラマ
私立探偵 濱マイク』の世界観が、
ミッシェルの音楽の持つ郷愁の面ともやや近いような雰囲気とも感じ取れたこともあって より自分の中に馴染み、
これによって一気にミッシェルの音楽の良さを味わうのだった。

その後、
SABRINA HEAVEN』と対になるアルバム、
SABRINA NO HEAVEN
が発売される。

この頃になると どの音楽チャンネルでも、
これに収録されていた曲のひとつ
デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ
のMVがよく流れるようになった。

部屋中が血に染まったMVというのが話題になり、
地上波では血であるという印象を和らげるためか、モノクロ加工されたMVが放映された。

ここでわたしのミッシェル熱も最高潮になる。
この曲のMVで使われた血まみれ風の楽器や小物が
タワーレコード渋谷店で展示されるとの情報を聞き付け、
友人Kと共にその展示を見るツアーを決行した。

展示物は渋谷タワレコの各階エスカレーター付近に設置されていたため、
上階から下階まで何度もうろうろして、
数時間は滞在していたと思う。
(ちゃんとタワレコ内で買い物もしました)

正直、
音楽そのものに付随するヒトやモノについては、
そこまで強く執着するタイプでは無いことは薄々感じていたが、
当時のミッシェルのMV絡みのことは ほぼお祭り状態で、
解散後 再結成も叶わぬ2023年現在では、
祭りに乗じて見に行っておいてよかったと強く思う。


今でもわたしにとってのミッシェルは、
映画『青い春』で使われた
赤毛のケリー』や『ドロップ』であり、
アルバムなら
SABRINA HEAVEN
SABRINA NO HEAVEN
の2枚が至高という位置付けである。

このミッシェルにまつわる体験があったことで、
のちのガレージ・パンク・ロック的な音楽を手に取る機会は確実に増えたように思える。

のちのフジテレビでの深夜の音楽番組
E☆L☆V☆I☆S
で数多く取り上げられていたガレージ・パンクなバンドも、
ミッシェルの音楽に触れていなければ敬遠していたことと思う。

この番組で知った サンボマスター も、
かつての話題作ドラマ『電車男』での主題歌の起用で人気に火がつく前に、
最前列でライヴを拝めたことは今も良い思い出だ。

サンボの中でも最も思い入れのある曲。
当時住んでいた地域近くのライヴハウスにしょっちゅう出演していたことでも、何となく親近感をおぼえていた。



▼ 新宿タワレコからの開拓


上京して落ち着いて来たタイミングで、
以前ストリートライヴを観た千綿ヒデノリ が 
タワーレコード新宿店 にてインストアライヴをするという情報を得て、
観に行ったりなどした。

【↓参考記事】千綿ヒデノリとの初遭遇

そう、
例のアニメ『金色のガッシュベル!!』の主題歌
カサブタ
のリリースのタイミングである。

相変わらずの彼の伸びやかな声に胸を打たれ、
初めての場所であるにも関わらず、
1年以上前に観た彼の姿を再びこの東京で拝めたことで
大きな安心感を得られたのだった。


千綿ヒデノリのインストアライヴが終わり、
なんとなく店内をうろうろしていると、
発売したての様々な音源の特設コーナーが作られており、
あるバンドのアルバムのジャケットに目を奪われた。

特設コーナーには試聴機が設置されていて、
本当に何となく、試聴を始めてみる。


それは、
今まで聴いてきた音楽のどれとも違う、鮮烈なものだった。

2023年現在までも現役で聴いていく事になる、
downy(ダウニー)』というバンドだった。

ここでの出会いが、
さらに音楽の趣味傾向を押し広げることとなった。

のちに母にも共有したところ見事にハマり、
同年秋頃には、下北沢シェルターでのワンマンライヴにも連れ立って足を運んだのだった。

【↓参考記事】元パンクス母の音楽趣向からの影響など


自分の住んでいたトチギにも無い大きなレコード店というのは、
とにかく新鮮で。

結果としてこのタワレコ新宿店は、
CDや音楽雑誌の購入のためのみならず、
7階や屋上でのインストアライヴや、
用事が無くてもふらりと立ち寄るようになり、

物の貸し借りや荷物の仕分けなどのほとんど全てにタワレコのショップ袋を使用するようになるという、

わたしにとっての音楽生活、日常生活に無くてはならない存在となった。

東京という場所は、
移動時間や距離を気にせず、
もっと身近にサクッと音楽やライヴに触れられる環境なのだと実感したのだった。



▼ 復活、新生・ラヴマシン


上京後 程なくして、
約半年ぶりにザ・ラヴマシンのライヴの知らせが入った。
2003年6月下旬、
一夜限りのユキズリ音宴』と題されたライヴ。
新メンバーのお披露目である。

一体どんなメンバーで、
どんなギターを披露してくれるのか。
ラヴマの音楽との親和性はどうか。

そんな事をごちゃごちゃと考えるよりも、
まずはラヴマのライヴの再開を喜んだ。


2003年6月26日。
半年ぶりの北浦和は、
ラヴマのライヴに通い始めた当時と違い、
約3分の1程の時間で辿り着けた。

移動時間がどう変わろうと、
ラヴマの出番が迫ると途端に緊張してしまうが、
いざライヴが始まれば
それも最初から無かったかの如く、
どこかへかき消えた。


音楽の神様が、降りてきた。


たった1曲。
新生ラヴマシンとしてお披露目されたのは、

新曲『幸福の園のユエン』。
 

圧巻だった。

このバンドの、
美しく精巧に作られた劇場のような、
箱庭の世界観の極致を見たかのようで、

頭から爪先の先の全身を纏う空気まで震え、
静かに涙が頬を滑った。

楽曲として『神曲』だと口にするのは容易い。

が、
実際『神曲』でしかないのだ。

それを演奏するのは、
1年前から数ヵ月に及んで見てきたラヴマのメンバーのほか、
細身の体にタイトなモッズスーツを着込んだ、
繊細で整った顔立ちの男性。

新メンバーのギタリスト、
深見之春氏だった。


彼は元々、
V系 メジャーバンドのヴォーカル&ギター 
として活動していた経歴を持つそうだが、
以前 何度かラヴマと共演したことで、
ミワユータの後ろでギターが弾きたい
という、
プロポーズのような台詞と共に加入が決まったようだった。

ラヴマの世界観を表現するには、
これ以上ないメンバーだった。

当時のライヴで配られたフライヤー。
今回のライヴはお披露目会であり、
実際の本格始動はここに記載された日程からであった。
ユータ総帥のヴィジュアルも、眼帯を装着する等して一新された。

ただ、当時 懸念を感じたのが、
このフライヤーのスタイルや小物類を見ると、
若干V系寄りになっていないか?ということ。

バンドのスタイルがコンセプチュアルであること自体は否定はしないが、
以前感じたファン層の異様さのようなものを思い出してしまい、
やや不安になったりもした。

【↓参考記事】V系というコンテンツの区別

ラヴマの先行きについて少々の不安を抱えつつも、
来たる8月12日からの本格始動を待つのだった。



▼ 初めてのロック・フェス


新生ラヴマの本格始動より数日前。
わたしは友人Kと共に、
初めてのロック・フェスというものに参加した。
毎年 茨城県ひたちなか市で行われる
ロッキング・オン・ジャパンが主催の野外音楽フェス、
ROCK IN JAPAN FESTIVALだ。

中々ライヴのチケットの取れない、
バンプオブチキン が出演するためである。

他の出演者については全くと言っていいほど知らなかったので、
バンプのために来たようなものだった。


フェスでの初めてのライヴは、
一番大きなGRASS STAGEでのバンプオブチキン。

想定よりもずっとステージ前方にまで行ってしまい、
初めてのもみくちゃなライヴ
初めての人々の熱狂ぶりにも驚かされつつも、
初めての生のバンプに、自らも熱狂した

目当てのバンプをひとしきり楽しみ、
初めてのぎゅうぎゅう詰めなライヴ体験に、
友人Kと共に抜け殻のようにへろへろになった。

ただでさえインドアでオタクな我々。
夏の過酷な環境でのイベントは体に堪え、
早々に
もう帰ろっか…?
なモードになっていた。
(※ここまでバンプしか見ていない)


へろへろになりつつも なんとなくタイムテーブルを確認すると、
別のひとまわり小さなLAKE STAGEに、
あの Syrup16g が出演するというではないか。

バンプが出るということ以外は特に何も考えていなかったものの、
友人Kがあまり乗り気でないなか、
疲れているところをなんとか引き連れ、
観やすい位置に陣取ってライヴを観た。

この年、シロップは『HELL-SEE』というアルバムをリリースしており、
そこでもまた個人的にシロップの音楽の良さというものを噛み締めていたところでもあり、
それを生で友人Kに見せられるのであればという思いもあった。

この頃の年代に購入したアルバムとしては、
あらゆるアーティストの中でも一番好きだったかもしれない。

実際、
初めての生のシロップのライヴというのは
思った以上に素晴らしかったし、
音源だけで楽しんでいたのは何だったのかと思えるほど、異常に格好いい音楽だった。
なんなら、この日のライヴとしてはバンプ以上に良かった。

ここで友人Kにシロップのライヴを見せたことで
見事に良さに気付いてもらえたようで、
のちのシロップのライヴには ほぼ欠かさず二人で行くようになったのだった。


しかしフェス慣れしていない我々は、
せいぜいが この Syrup16g のほか、
同じステージに出演した
ART-SCHOOL(アートスクール)
を少々観て満足して帰路に着いたのだった。

ART-SCHOOLもまた、
これをきっかけにしてライヴに通うようになるバンドのひとつにもなり、
初めてのフェスであるにも関わらず観たバンド数は少なかったものの、
中々に収穫のあるフェス体験となったのであった。



▼ 新生ラヴマ、本格始動


2003年8月12日。

いよいよ、
新生ラヴマシンとして本格始動となるライヴを迎えた。


細かい事は覚えていないが、
1曲だけでなく従来通りの曲数で行われたライヴは、

前述の不安も払拭される程、
ラヴマの音楽としての
完成』を感じられるものとなった。

休止前のラヴマの既存曲にも
深見氏のギターがアクセントになりつつも秩序を保って溶け込み、
さらに魅力を引き出し押し上げ、
お披露目会で演奏された『ユエン』は
より磨きがかかっていた。

これでラヴマは安泰だ!!
と、胸を撫で下ろしたのだった。

深見氏の加入後に発売されたCD。
『揺籠と棺桶』
『幸福の園のユエン』

の2曲入り。
レーベルデザインには総帥の描いたイラストが使用されている。
新生ラヴマの始動開始ライヴ後に配られたフライヤー。
新録『エンドロール』のCD…だと…!?

新生ラヴマのスタートは
以前から通った北浦和エアーズであったが、

次のライヴは、
わたしも初めてとなる都内のライヴハウス。
しかも、オシャレな街の代表格である表参道。

本格的に、
新たなラヴマシンのステージが始まったのだ。

新録版の『エンドロール』の音源もゲット。
しかし印刷の関係か、
経年で文字が滲んで溶けてしまったのが残念。


▼ ラヴマと共に行く、数多のライヴ現場


新生ラヴマが本格始動してからは
都内を中心にライヴが行われるようになり、

わたしもそれに着いていくようにして、
都内で行われるほぼ全てのラヴマのライヴに足を運び、
その分だけ音楽的な視野も広がっていった。

最初のうちは、
表参道FAB、老舗の 渋谷La.mama 辺りが主戦場だった。

最低月に1本。
平均で月に2本。
多くて3本、4本の月もあった。


以下は手元に残されていたフライヤーで、
これが全てではないが
ラヴマの年間ライヴ本数の多さを、
これらでダイジェストにしてお届けしたい。

2004年のフライヤー。
この年あたりから、加速度的にライヴ本数が増えていく。
北浦和エアーズの発行するフライヤーに再び掲載されたラヴマ。
収集癖のある わたしが当然とっておくやつです。
集客のためにもらっておいたコンテストのチケット。
わたしももちろん参加したが、
恐らく誘った友人の一部が参加できずに手元に残ってしまったであろうもの。
当時の楽曲『帰り道』の1曲のみバシッと演奏してインパクトを残していた。
コンテストはラヴマを観たらすぐに帰ってしまったが、
よく見ると当時よく対バンしていたバンドも出演していたので、
もっとちゃんと観ておけばよかった。
2005年のフライヤー。
記載のサンプルCDには、当時のライヴ定番曲の
『エンドロール』『ベッドでかぞえ唄』
ライヴ音源やリミックス音源が収録されていた。

また、ここに書かれている『業(Go!)』というのは、
アルバム『命題0』に収録されていた
『素敵なパラノイア』の歌詞の中に登場する掛け声。

こちらもライヴではよく演奏されていて、サビの
「僕には時間がない!(業!業!)」
で拳を振り上げるのが恒例だった。

また、この頃の渋谷ラママの対バンにいたオーノキヨフミのバックバンドとして
くるりの元ドラマーである森信行氏が入っており、
この頃にはくるりのライヴにも毎回のように通っていたが既に森信行氏は脱退していたため、
図らずもラママで激近な距離感で森信行氏のドラムプレイが見られるという
大変レアな体験も出来たのだった。
2005年のフライヤー。
ヴィジュアルイメージが再び一新され、
眼帯はそのままに、女性らしく艶っぽさのあるワンピース姿のユータ総帥。

出演するライヴハウスの範囲も広がり、
千葉の柏にも足掛かりを作ったほか、
ライヴといえば!の下北沢や 名古屋への遠征、
メジャーバンドが多く出演する さいたま新都心VOGUE(現 HEAVEN'S ROCK)、
あらゆるライヴハウスへの出演とともに、
わたしのライヴハウス歴も広がっていく。

初の柏でのライヴでは、
数年前に解散したバンド NICO Touches the Walls との対バンだった。
こちらも2005年のフライヤー。
グラム・ロックならぬグリム・ロックという呼称、
まさにラヴマに相応しいと思った。

自身ではスネオヘアー以外に、
ここに記載の名古屋へ初めて遠征ライヴにも行った。
そして2023年現在ではシカト祭りでもお馴染みの新宿MARZへの初出演を果たすラヴマ。
わたしは この7/28名古屋と7/29新宿の2days、両方行ったのである(白目)
同じく2005年のフライヤー。
この辺りから、かなりのハイペースで音源を発売していた。

ここに記載があるように、
『ロッキンコインランドリー』
『+α here』
『Carry on music』

が収録されたレコーディング音源の他、
ライヴ音源や蔵出し音源など、
この年だけでも合計5枚以上の音源を発売・無料配布があった。

中でも『綱渡り姫』という曲はライヴでもよく演奏されたが、
かなり好きな曲だったこともあり、
音源として発売された事に本当に喜んだ記憶がある。

また、
『キキミミ』収録の
『ロッキンコインランドリー』
2023年現在のベスハチのライヴでもお馴染みの
『ロットガットで飛んだ』
この頃に発売されたシングル曲が原曲となっており、
今のアレンジとはかなり異なったものである。
このカップリング曲には、
以前発売されていたシングル『奈落のハニー』
2005年版としてアレンジされたものが収録され、
ライヴでもこの2005年版の曲が定番曲のひとつだった。

そして、ロットガットハニーのような
ロックなテイストの楽曲が増えていったのもこの2005年辺りだ。

以下はアレンジ後の
ロットガットで飛んだ』と
ロッキンコインランドリー』。
これらの方がよりロックで疾走感のある楽曲に仕上がっており、断然好みである。


2005年のフライヤー。
この頃から、柏駅で路上ライヴをするようになっていたラヴマ。
場所が千葉とあって、中々行く事はかなわなかった。
ここに記載のある『蔵出し第二弾CD』には
『日常平等』という曲が収録されていた。
『蔵出し第一弾CD』の収録曲が『綱渡り姫』である。

ちなみにこの2005年という年はラヴマ以外にも
かなりの本数のライヴに足を運んでおり、
特にロキノン系バンドの多くのライヴに通った結果、
12/29、12/30は
ロッキング・オン・ジャパン主催の年末音楽フェスCOUNTDOWN JAPANを中抜けして
ラヴマのライヴにもハシゴをするという強行手段に及んだ。
こんなことはもうこりごりだと思ったが、
その後再び同じことが起こるのだった。
学習しない。

ラヴマに着いて毎ライヴに行くことで、
それぞれにフェスも含めると
2004年は53本。
2005年は67本。
それだけの数のライヴ現場へ足を運んだ。

2004年以降は特に、
TVが主体だった音楽開拓は
行くライヴやイベントの対バンからがメインとなっていき、
バンドの良さというものは音源ではなく
生で体感してこそ理解できるものだ
と はっきり認識することとなった。


そうして続いたライヴ漬けの日々からの、
2006年1月。


突如ラヴマから、
新たな告知がされたのである。


次回へ つづく。


ベスハチの楽曲の中で、
ラヴマの音楽の世界観に一番近いとしたら
嘘とバスタブ』辺りであろうと思う。
ゾクゾクして非常に好きです。

トランジスタシス』辺りも、
テイスト的にはラヴマの音楽に近く、
聴くと何だかラヴマのことを思い出して泣けてくるのだ。

👑 Elizabeth.eight(エリザベス エイト)

Webサイト
https://beth8.net/

YouTube公式チャンネル
https://m.youtube.com/@ELIZABETHEIGHT

X(旧 Twitter)
https://twitter.com/ELIZABETH_EIGHT

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