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脱真面目のすすめ

 私はどちらかというと真面目だと思う。真面目というか、他人からどう見えているか常に意識してびくびくしているからいつも気が引き締まっている。本当に誰も見ていないのなら私はもっと好き勝手している。

 でもそんな性格のおかげで、いつもテスト前はちゃんと勉強してきたし、人に大きな迷惑をかけたこともないし、何かの提出期限を破ったことも少ない。学校の成績もよく、評定平均は高かった。大学受験も、塾に通わず学校の先生に自分で解いた小論文を添削してもらうというのを1年間続けて第一志望に合格した。あとバレエもほぼ休むことなく15年間通い続け、小学校のころには同い年の子よりも先に発表会でソロを躍らせてもらったり、物語では主役をやらせてもらったりもしていた。自分で言うのも憚られるが、先生の言いつけを守ったり、自分で自分を制して努力をするのが得意な方だと思う。

 そして私は自分のこのようなところが好きだった。

こういう真面目さは何にも代えがたい、良い性質だと思っていた。でも大学に入学してからこれが邪魔になってきた。もちろん授業に向かう姿勢とかテスト勉強の時はとても役立つ。しかし、他の「真面目」じゃない人、でもしっかりすべきことはしている人を見て、良いな・・・と思うようになった。そのような羨望のまなざしは、時に嫉妬とまではいかないけれど少し怒りの入った羨望に変化していった。例えばグループワークの時に、誰がやっても良いことを私がやることになって、それが思いのほか時間がかかってしまったとか、誰かがチートしているのを目撃したけど、先生には見抜きようがないから成績は下げられていないとか、、

私はそういうことは真面目だからしない、というか、できない。でもできる人は、ばれない範囲で器用にやる。

 うらやましいなら君もちょっとずるしたり、人に仕事押し付けたりしたらいいじゃん、って思われるかもしれないけど、なんかびくびくしてできない。もう一人の自分が自分を監視しているような感覚。昔誰かから怒られた経験があってトラウマになってるとかでもない。自分でも不思議である。

 最近はそれがちょっとしんどいから、私のことなど誰も見ていない、と思うことにした。私が作り出していたもう一人の自分というのは、誰かはこういう目線で見ているかもしれないという、私の脳内で勝手に作られた思い込みだと思うことにした。私は誰かに見られるような影響力のある人間ではない。私は自分が思っているより小さい。もちろん見てる人もいるけど、見てたよって言われないということは、特に見ていても違和感がなかったり特に伝えたいことなどなかったからではないか。

 こう考えるようになってから、私から真面目さはまあまあ消えた。どちらかというと自由人になった気がする。そのおかげで自分のやりたいことは以前よりできている感じがしているし、罪悪感を抱く頻度も少なくなった。真面目さは私を今まで成長させてくれ、そのおかげで今の私があると思えば大事な要素だったけれど、そればかりでは私は押しつぶされてしまう。程良い真面目さを保ちつつ、手を抜くところは抜いた方が救われる。

 というかよく考えてみれば、真面目な人よりも、楽しそうな人とか気楽そうな人の方が、一緒にいたいと思うのではないか。真面目な人といると、良くも悪くも気が引き締まるけど、

友達にしたいのは一緒にいて楽な人、安心できる人の方が多いんじゃないか。

こうやって正当化しながら、少し不真面目の道を歩んでみようと思います。

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