5/6 教材研究がしたい(書くことが(愚痴しか)ない その十一)
当たり前といえば当たり前なのだが、担任も部活も分掌も昨年よりずっと忙しくなり、とにかく「教材研究」にあてる時間がない。
ずっと不思議に思っていることでもあるのだが、教員たちはあらゆる授業の準備を合わせて「教材研究」と呼ぶ。専門用語には間違いなく、翻訳語なのだろうか、どうも、特に「教材」という言葉の意味合いが通常の使い方とは異なっているように思える。つまり、通常、というか、きっとそれなりに一般的な日本語感覚を持っているであろう私(この奇妙な文章を読み返すとそう一般的ではない気がしてきた)には、教材といえば、芥川龍之介「羅生門」だとか清岡卓行「手の変幻」だとか「児のそら寝」だとか、(それらが「定番教材」と呼ばれるように、)それを用いて教授を行うそのものを指すように思われる。あるいは、それらを収めた教科書や、参考資料や、補助的に用いる手作りのプリントや、ペンやノートやタブレットが、教材と呼ばれるものに思われる。しかし、教員の用いる「教材研究」という言葉には、教授内容の選定から、教材の選定、教授内容と教授の理解、教授法の検討、プリントやスライド等の教材の作成も含まれているのだ。
しかし、本題だが、そのような「教材研究」など、もうしばらく――少なくとも今年度になってからは、全然できておらず、悲しい。そもそも国語の研究や授業や生徒指導なら仕事にする価値があろうと思って教員になったのに、その研究と実践にあてる時間の数十倍を、専門でもなんでもない部活動の雑務や書類作成や教員間の調整にあてる悲しさよ。昨年度くらいまでは、自分なりに本を読んだりなんだりと楽しく「教材研究」ができていたが、今や私の「教材研究」は、お決まりの質問を集めたプリントを刷ってテストを作っての繰り返しでしかない。昨年度くらいまでは、仕事なのだからこれくらい仕方がない、と思える範囲の雑務であったが、今や勤務時間を超えて「自主的に」無給で際限なく雑務をこなしているのだから、たまったものではない。まったくコロナ禍というのは、強烈で一過性の働き方改革であった。
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