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広告が嫌いなのは広告が僕を見ていないから

広告はウィルスに似ている。標的は不特定多数の人類であって、僕個人ではない。(※ちょっと誇張している。)
2024年に生きる人類は、多種多様の生体的ウィルスに加え広告へも抗って生きなければならない。まぁぼちぼちやっていきたい。

僕は三分の1世紀近く生きてきて、生まれた家族とか通った学校とかで関係性を持ったり、旦那さんに出会えたり、人生でいろんなフェーズを経て来たけど、広告は僕を知って話しかけてこない。

今世界が広告に溢れているのは際限ない利益を追い求めないといけない資本主義に一部基づいていて、その溢れるほどにある広告の中で偶然僕に直接話しかけていそうなものがあったとしても、そんなのはほとんど奇跡だ。大多数の有象無象に向ける予定の情報を僕に投げかけないで欲しい。売り上げを上げたい執念の矛先は僕の知らないどこか遠いところでやって欲しい。一方、広告側としても「君に矛先を向けたつもりはないんだけど」と思っているかもしれないけれど(そんな優しさが広告の概念に含まれているとは思えないが)、インターネットによって広い世界が繋がってしまった状況も相まって、お互いに不利益な情報伝達が起こっているし、誰だか知らない人に向けられた広告を僕の視界からどけるために、youtubeにお金を支払いなさいなんて言われるのだ。そりゃ自然と眉も顰めてしまう。

かつて広告は知られていない商品やサービスに留まらず何かしらの情報をより多くの人へ伝え広めるために始まったものと思われる。シャーロック・ホームズが執筆されたような時代に遡れば、広告は行方不明者の捜索や求人など、もっと一般の人間一人一人と関係が深かったように読み取れる。それが今や本来の目的から一人歩きして、稼いでいる者がより多くを搾取出来るようにするための仕組みへと成り下がっている。全ての広告がそうでないとしても、そういった利益至上主義的な動機が業界に蔓延しているといっていい。

僕は高校生卒業くらいの頃からテレビを見ていない。僕の家には小学校の頃から家にパソコンがあった。もちろん画面はブラウン管でマウスはUSBなんかでは繋がっていなかった。(あの頃Windowsのバージョンはなんと3.1だったし、マウスのコネクタはあの小さい穴と四角い穴が開いていて全体が円柱状のやつ。)だから高校生になる頃にはインターネットでコンテンツを視聴・閲覧する癖が出来ていて、シークバーもない上に余分な広告まで挟まるテレビからは自然と離れてしまった。

あれから十数年、広告がインターネットに浸食を開始してからもう何年も経つ。ここ何年かはAdBlockとのサステナブルウォー的様相も呈しつつ、少しずつ忍び寄ってきて気付いた時には包囲されているかのような状況に感じている。広告が嫌ならお金を払えばいいという人は一定数いるが、そういう人たちは広告の発祥とインターネットの出現、また留まることを知らない資本主義に疑問を持った上で自分の中で解決してそういっているのだろうか?利用費なのだから払わなくてはと彼らは鵜呑みに出来たとして、僕のような疑問の止まない人間にも思考停止して支払うべきだというのだろうか?

言いたいことを言い切れたかは分からないけれど、一筋縄ではいかない問題であることは事実で、多分どの部分を受け入れてどの部分には抗うかという切り分けが必要なのかもしれない。諦めずに考え続けたい。

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