色づく感覚〜共感覚について
少し間が空いてしまいました。寒くなりましたね。
今日は、共感覚について書いてみます。
唐突ですが、私は共感覚があり、文字に色を感じます。
文字に色を感じる共感覚は「色字共感覚」と言い、一番スタンダードな共感覚と言われているそうです。
先日書いた記事にいくつか反応をいただいたのですが(ありがとうございます)、
その中で共感覚に触れている方がいらっしゃり、他の方の共感覚を知り、感じるのは、改めてとても面白いなと思いまして。
共感覚は当然その感じ方が個々人によって違うため、研究がなかなか難しいそうで、文献や研究書も溢れるほどは出ていないとのこと。
ここ10年ほどで書籍も増えた気がしますが、洋書、邦書ともにあまり多くはない印象で。
なので他の人の共感覚がどういうものなのか、共感覚者自身もあまりわからないのです。
自分が共感覚者だと気がついてから、共感覚は自分だけの感覚ではないこと、反対に全員装備ではないことにも気がつき。
そしてもっと掘り下げたい!と思うもなかなか、自分以外の共感覚に具体的に触れる機会はないまま。
最近はnote等で共感覚について発信されている人も多く、そこでもっといろいろな共感覚と交われるんではないか、と。
そのためには、自分もまずは発信してみようかと。
前置きが長くなりましたが、そんなこんなで今日は、私自身の持つ共感覚について書いてみようと思ったのです。
自分が共感覚持ちで、「文字に色を感じる」とはっきり気がついたのは、確か大学生の頃。
それまでも、何となく“ある種の傾向”は感じていたんです。
日本人俳優の名前はすっと覚えられるのに、海外の俳優の名前はなぜか覚えにくい。
似た漢字の名前、たとえば「田中一郎さん」と「田仲一朗さん」を絶対に間違えない。
授業のノートや、教科書に引く時に、いろいろな色を使うとしんどい。
でもそれらが「文字に色を感じているから」だとは気づかず、そういう“性質”なのかな、と思うくらいでした。
日本人俳優の名前が覚えやすいのは、日本語の方が文字の種類、つまり色の種類が多くて、記憶のフックになりやすいから。
似た名前を間違えないのは、例え漢字が似ていても、感じる色が全ての字で違うから。
書く時に色を多く使うとしんどいのは、文字自体に感じる色と書く色が混ざり合い「色酔い」状態になるから。
ふとネットで目にした「共感覚」「色字」の言葉・概念が、感じていた傾向の理由だと気がついたのが、大学生の時。
その日は一晩中ネットの海で「共感覚」「色字」を調べ倒したのを覚えています。
言いようのないスッキリ感。なるほど感。
きちんと理由があったなんて、という感動。
そして人間の脳って何をどう認識しているんだろう、というさらなる好奇心。
私的アハ体験、と言えるかもしれません。
今でも、その時に見つけたページでたまにテストをしています。
(↓Flashが必要なページです。サポート終了後はどうなるんだろう…)
テストを度々するのは、自分が今でも本当に共感覚者か?と疑うからではなく、自分が今どう感じているかをただただ客観視できるから。
自分の感覚の整理、とでも言うんでしょうか。
感覚に集中し、どっぷり浸りたくなると、ついページを開くのです。
私の場合、年月が経っても同じ文字に感じる色はあまり変わらず、同じことがほとんど。
そして「み」がみかん色、「と」がトマト色、「森」が深緑、「火」が真紅など、文字の意味と感じる色に関連性があることが多く、後天的で意図的(本人はいたって無意識ですが)な感覚なんだと改めて感じます。
たまになぜその色?と説明できない文字もあるけれど、脳の中ではきっと何かの関係性でもって処理されているのでしょう。
とっても楽しい。
ちなみに、東京大学と立教大学が共同で「色字共感覚の色は文字についての知識を反映している」という研究結果を発表しています(2019年)。
以下はプレスリリースですが、「感じる色は文字についての知識を反映している」はまさに、さっき書いた私の感覚と同じ。
これは色字共感覚の基本認識なようですが、それもとてもわかりやすく書かれています。
私の場合、ひらがなは暖色系が多く、漢字に寒色系が多いような気がします。
ひらがなは丸っこいから暖かくて、漢字は角ばっているから寒く感じているのかもしれない。
この「丸いから暖かく、角ばっているから寒い」感覚もとても主観的ですが、それでも同じ文字を何度見ても感じる色がブレないのは、自分でも不思議なところ。
そして私の場合「人の名前」は文字列の中でも特別なようで、感じ方にさらに特徴があります。
文章やその他の言葉と違い、「人の名前」にはその一字ずつの色はもちろん、名前全体にも別の色を感じる感覚があります。
といってもはっきり○○色!とは言い切れない、オーラのようなぼんやりした色付き。
まだ自分でもはっきりと掴みきれていないので回りくどい言い方ですが、おそらくその人に対する私のイメージの現れなのでしょう。
名前全体に感じる色のことを、勝手に「名前の色感」と呼んでいます。
そのためか、一度文字で見た人の名前は覚えやすく、漢字も間違えない。
つまり「漢字の色」「名前の色感」が同時に感じられて、その組み合わせが被る人はほとんどいない。
なので結果的に人の名前を覚えるのが得意で、ほぼ一発で漢字ごと覚えられます。
これは非常に便利で、私の共感覚の本当にいいところ。笑
そしてたまに、すっごく好きな色の組み合わせを名前に持つ人がいます。
一字ずつの色の組み合わせが綺麗な人、名前の色感がものすごく心地よい人。
そして最高峰は、そのどちらもが完璧に調和している人。
しかもその色が、人柄や雰囲気、顔や立ち姿…その人自身とぴったり合う時の気持ち良さと言ったら。
めっちゃいい色の名前してますね!!といつも心で、大声で叫んでいます。
これこそ私の主観中の主観なので、なかなか伝わらないのがもどかしいですが。
ここまで書いてみて、まだ自分でもこの色字共感覚を掘り下げきれていないなぁと感じています。
なんだかうまく言葉にできない箇所があって。
脳が感じさせていることなので、きっと自分なりの理屈や道理があるはずなのですが、理論的には取り出せていないというか。
そしてよくよく自分の感じる色と向き合うと、もっと細かく感じ方のクセがありそうな気もしています。
まだ自分の気がついていない自分の感覚があるなら、掘り起こしたい。
別に職業や生活に活かせることではなくても、自分の中に面白いものがあるなら知っておきたい。
そういう知的欲求が近頃高まってきました。なぜだろう。
ということで、このnoteを機に、自分の感覚をもう少し細かく分析してみようと思います。
全然大したことないかもしれないけれど、とにかくとても楽しそうなので。
今後度々、このnoteに私的共感覚レポートが登場するかもしれませんが、生温く見ていただければ。
そしていろいろな共感覚をお持ちの方、ぜひ反応をいただけると嬉しいです。
今日の写真は、フィンランド・ヘルシンキのデザイン美術館でやっていたアアルト展。
誰もが知る大巨匠ですが、そのデザインが一挙に見られるのはとても興味深く、年代ごとの変遷も追えて北欧デザインの礎を見たような気がします。
無駄と隙のないこのモダニズムデザインは、現在もヘルシンキの街のあちこちで愛されていました。
そしてアアルトカフェで食べた生ニシンのオープンサンドがいつまで経っても忘れられない…
黒パンに乗った、ぴちぴちの生ニシン。
これを食べるためだけにまたヘルシンキへ飛びたいくらい。
だから写真も載せちゃう。
酸味の効いた、これぞ北欧、な黒パンが隠れるほどの具。
新鮮な生ニシンの旨味に、クリームチーズとトマトの酸味、ぷりぷり卵とシャキシャキレタスの食感が全てにおいて完璧なバランスだった…
たぶん人生で1・2を争うほどの印象メシ。
「生ニシンのオープンサンド」、は何色だろうなぁ。
それでは。