解説のない現代アートの不思議

皆さんは現代アートにどんな印象をお持ちだろうか。「落書き」「金持ちの道楽」「インテリの勘違い」

正直どれも間違ってはいないと思う。むろん作り手や理解者やあとまあビジネスの方々は浅い理解だと罵ったりするだろう。

だけれども、正直どの分野でもある程度先鋭化のしたものというものについては、庶民が理解できるほうが不思議なのであって、それは現代アートに限らないように思う。誰にも理解はされないが、社会を支える技術があるように、ほとんど誰にも理解はされなくても、特定の層にだけ響くことに価値があってもいい。なので、みんなに理解できるようにすれば素晴らしいとかいうことはない。大事なのは、鑑賞者が何かしらのインスピレーションや感動を得ることであって、それ以上でもそれ以下でもない。

そういう意味では、下記の現代アート展はよかった。
Wang Yancheng
(王 衍成・ワン ヤンチェン)のWang Yancheng’s World-Contemporary Art
という展示だ。(彼の世界とは実直で傲慢なタイトルだが、それが良い)

私は常々、美術館や博物館の解説音声を買う人々が理解できないと思っている。ネームプレートの横の詳細な細かい文字を一言一句読むのも理解できない。いや、理解はできるが、理解したうえで、もったいないと思っている。私にとって、芸術というのはおおむね「答えがないから素晴らしい」という価値観で測られるため、ある種の答えの押し売りになる解説をありがたがって聞く必要はないと思っている。

むろん、何度も展示を自分で見たうえで、その後に新たな知見を得るために解説を手にするのはアリだと思う。ただそれはあくまで批評家や学術者のスタンスであって、鑑賞者のスタンスでもないように思う。鑑賞者は、未知の泥濘の中から、何かしらをつかみ取るこそが大事なのではなかろうか。

ところで上記の展覧会ではあるが、解説の音声はなかった。何なら、ネームプレートの横にあるタイトルはすべて「Untitled」であり、こまごまとした文字はなかった。入口に、何やら現代哲学者の言葉が引用してあり、「モノとは、物そのものがあるという次元と、物が持つ意味としての次元で全く異なる」というような趣旨のことが書いてあった。まあぶっちゃけ難しく書いてあったが、我々の認識というものは、およそ光学的な視覚の信号、およびそれに基づく価値観によって形成されているのであって、モノそのものではない、本展示は、作者がモノそのものをとらえようとした表現した場合に、言葉では表すことができないのは当然、というようなことを書いてあったように思う。魂とガワというか(呪術廻戦か)、なんというか。まあよくある哲学的テーマの一つであるように思った。自身がこのテーマに興味があるからわりとするすると読めたように思うが、もしかしたら全然違う意味かもしれないから違ったら申し訳ない。

脱線した。
私は監視役の学芸員に尋ねたのだ。
「いつも美術館であるような、解説は売っていないんですか?」と。

学芸員は少し困ったような表情で、「これは現代アートですので、皆さんに感じてもらうものです。なので解説はありません」と答えた。

不思議である。現代アートだけがそういう対象なのか?まあ堂々と答えたならそうだという風に思ったかもしれないが、オドオドしながら答えられたのでは、解説できないことの言い訳を並べられたようにも感じた。

むろん、作者はまだ美術の教科書にも載っていないだろうし、本展示は日本で初めてということだから、日本で有名でもないだろう。だから解説できるほど詳しい人がいない、というのは然りである。「現代アートなので、皆さんに感じてもらうもの」というのが引っかかるだけだ。現代でないアートは、そうではないのだろうか。私がさっき無駄にうだうだと書いたものもそうだが、答えが最初からあるものは、そもそも人の心を動かすに至らないと思っている、解説自体が野暮だと思っているのだから、そのとおりだと首肯するところなのだ。では普段の美術館で売っている解説は何のために売っているのだ・・・と。たかが一学芸員に投げかけて困らせるつもりはないので、その場は適当な相槌と愛想笑いでやり過ごし、鑑賞に戻った。

展示されていた作品自体は、非常に良かった。良かった、と表現するのがいいのかはわからない。Untitledの名の通り、何を書いているかは全然わからなかった。クジラっぽい絵もあれば、美女っぽい絵もあった。クソをぶちまけたような絵もあった。だが、それは私の脳が勝手にそう解釈するだけで、明らかに絵は意味を手放そうとしていた。そう、哲学者の言葉通り、モノをモノとして、意味を放棄したうえで描こうとした場合に、こういう形になるのかもしれない、と思わせてくれる程度の作品にはなっていたのだ。だから、我々が普段囚われがちな意味から、少しでも離れられるという場としては、唯一無二の空間になっていたのは間違いない。そういう意味では、非常に良かった。

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