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僕は二度、震えた。


なんとなく、今書いておかねばならぬと思った。
今、この先が見えない不安というのは、確かにあの時も感じていたはずだから。
思った以上に傷ついている。
誰しもが。
SNSが荒れているのがわかる。
声をあげなきゃとか、真っ当にしなきゃとか、強迫性みたいなものも感じる。
人の揺れる感情が流れ込んでくるのは、結構応えるものがある。
今の状況は、過去と似ているのだろうか。
9年前の今ぐらい、僕は東京で一人だった。
似ている部分もあるが、同じでは無い。
勘違いをしていたくはないから、
自分を保つために、独白をここに。


---以下、東日本大震災についての回想を記載する。---



2011.3.11、あの大地震の日。
僕はちょうど国公立大学の後期受験の前日であった。
本来であれば、あの日、僕は山梨県外の大学へと受験をしに行くため
出かけるところであった。
とりあえず、勉強することは欠かせない、重要な責務だと思っていた学生時代、第一志望の受験がうまくいかず、別プランで受験スケジュールを組み直して、ようやく最後の試験だ、という日。
けれども、僕はその日家に居た。
受験することを前日にやめたのだった。
無理してまで、受けに行きたくなかった、もう疲れていた。
親に相談して、これまで受験した別の大学に進学したい、と話をつけていた。
だからあの日、僕は家に居た。
ちょうど、歯医者に出かけようとした。

いつもの富士山。いつもの青空。すぐ赤くなる信号。
久しぶりに自転車に乗った。
受験シーズンはこもりっぱなしで、身体が風を切っていく感覚は久しぶりだった。
突然、ハンドルが僕の意思を裏切った。
揺れる車体、崩れるバランス。
運転不能な状態。
あれ、しばらく自転車に乗らないと、こんなにも下手になるのだろうか、と思った。
自分の身体能力の低下を恨めしく思いつつ、もがいて乗り続けるも、
いよいよ転びそうになって、足をつく。

「なんだこれは」

身体が一瞬で強張った。
危険、というものを強烈に感じた。
決して運動不足で自転車が乗れなかった訳ではなかった。
波打つ電線、しなる電柱、止まり出す車。
世界が揺れている。
2時46分ごろ。
途轍もない不安が肌に染みていった。

急いで家に戻ると、母は外に飛び出していた。
家の柱が歪んでいた。
僕が住む地域は、地盤がゆるく周辺地域より揺れやすい。
震度5弱はあったようだ。
1時間もしないうちに停電、断水となった。
僕たちは長い夜を過ごすこととなった。
3月中旬といえど、僕が住んでいた地域は標高が高くまだまだ寒い。
石油ストーブを囲んで、家族が一部屋に集まった。
あの時、一体何が起こっていたのか何も知らなかった。
情報源はラジオとTwitterだけだった。
いつも以上に流れの速いタイムラインはとにかく異常事態が起こって、大変だということしか理解できなかった。
冷静に努めようとするパーソナリティーの声と、無機質とパニックが入り混じったタイムライン。
怖かったのだ。ただ。
寒さと恐怖に震えながら、明け方まで寝れなかった。
いつの間にか落ちてしまっていて、朝を迎えると、電気は復旧した。
映ったテレビのニュース映像は惨劇だった。
あの津波の映像だ。
自分たちが体感したよりももっと恐ろしい映像だった。
しばらくの間、あの映像が繰り返し繰り返し、流れるのは耐え難かった。
だからニュースを見ることをやめた。
受験に疲弊して、正直僕はボロボロだったのだ。
あの激震から少しの間のことをしばらく思い出せない。
外部情報から僕は閉じていったことだけはわかる。


4月になって、僕は晴れて大学生。
あの激震による混乱はまだまだ続いていた。
入学式は無くなったし、まだ大学もしっかり稼働していない。
確か授業がきちんと始まったのは、ゴールデンウィーク明けからだった。
田舎者の僕は上京することに、眩しすぎるくらいの希望を抱いていた。
多分その希望があったからくじけなかったような気もする。
慌ただしい中での初めての一人暮らし。
友達は誰一人いない。
コンクリートジャングル。
孤独だった。
不安しかなかったと思う。
けれども、当時ひるむことなく前に進み続けられたのは、知らない世界が目の前にある、という好奇心だけを持っていたから。

僕はその地震の年に、法政大学 文学部 地理学科に進学した。
地理学を学ぼうと思ったのは、地理とは単なる暗記科目でないことを、高校の時に教わったのがきっかけだった。
(大学進学の本当の動機は閉鎖的な土地から離れて、広い世界に飛び出てみたかったから。
だから、正直学部はどこでもよかったのだけれど。)
地図や土地の情報にはパズルのように様々なピースがあって、それらが全ての営みを形作っているということ。
地図の上から人が、社会が生活をしているイメージが広がった。
それは僕にとって、とてもロマンチックに感じた。
人が生きている、暮らしている、受験勉強の合間、地理の過去問を通して、ときめいていた。

今となっては地理学科に進学して、受験は成功だったと思ってはいるが、
当時、センター試験に大敗し、第一志望だった某国公立大学への進学は無残に散り、心は空っぽだった。
あんなに勉強したのに。
そこでようやく気がついた、勉強なんて別に好きじゃなかった、と。
紆余曲折をへて、ご縁のあった法政大学文学部地理学科に入学したわけである。
高校時代の地理学の恩師から、大学での地理学は高校までの教科書上で行うものとは、ワケが違うということを聞いていた。
少し緊張しながらの初めての地理の授業。
指定された地理学オリエンテーションに参加する。
そこで出会ったのが漆原教授。
自然地理学が専門のチャーミングな可愛いらしい教授だった。
教授は小柄で、少しおどけた雰囲気を持っているが、
その見た目とは裏腹のパワフルさに、僕ら学生は圧倒された。
最初の90分間のオリエンテーション、ひと息つく間もなく、しゃべり倒した。
最初の講義で、教授は2つの話をしてくれた。
地理学の起源の話、そして今回の震災の話。
教授は、同じく法政大学の地理学部出身で、主にカルスト地形(山口県の秋吉台なんかが有名)の研究をされていた。
教授は間も無く定年を迎えるタイミングで、当時の僕らをゼミ生として、受け持つことはない、との前置きした上で話を始めた。
穏やかに、にこやかに自らの最近の研究について---ルーマニアを舞台に、研究チームで地質測量を行なっていたが、あまりにも吹き下す風が強くて、もう60歳も越えてくると、風に立ち向かうのはしんどいわねー、おほほほほ。---と、話す。

そして、地理とは何かと話題が進む。
「地理学と哲学は諸科学の母」と教授は言う。
とても魅力的な表現だ。
地理学は文系でも理系でもない。広く総合的な学問で、ざっくり分けるとするならば、人文・社会・自然に分けられる。
(僕はとっても合理主義だけれど、文系。数学全くダメ)
頭に研究対象(〇〇)を持ってきて、地理学とつけてしまえば成り立つくらい、カバー範囲が広い。
地球上に起こりうる事象、その全てを空間で切り取り、その事象の本質的な理解を目指していく学問といったところである。(なるほど、わからない。)
おそらく義務教育でも地理より、歴史の授業が好きな人が多かったように思う。
僕は歴史よりも地理の方が現実的で面白いと思ったのだけれど。
その歴史と比較して見るならば、歴史はその事象を時間軸で切り取っていく。
いわゆる縦に重なっていく学問である。
一方、地理は、事象を空間軸で切り取っていく。
すなわち横へ広がっていく学問というイメージだ。
義務教育のレベルでいうと、地理の横の広がりというものはとても限定的で、しかも立体感がない。
まさに地図だけ眺めていてもただの記号にしか見えなくて味気ない、といった感覚だと思う。
だから地理は暗記科目でつまらない、と思われていたんじゃないか。
一方歴史は、あるタイミングを起点にストーリーが描かれる。歴史が好きな人は、きっとそこにある種の楽しみを見出していたりしたのだろう。
教授の地理学の話を聴きながら、自分の地理学について考えを巡らせていた。

そうしているうち1時間以上話が止まらない。
そろそろ一息つくかな、と思ったところで、地震の話に移った。
パワーに圧倒される。

当時、教授は大学のビル12階研究室にいたという。
ドカンという、縦揺れの直後、耐震構造のビルは右に左に大きく揺れた。
研究室の壁一面の本棚からたくさんの蔵書が飛び出してきた。
体のコントロールがきかず、流石にパワフルな漆原教授も、恐怖に身が竦んだそうだ。
揺れが収まって、高層ビルから非常階段を使用して外へと出てようやく、息を吸えたと話す。
それから教授は、目の色を変えて、僕たちにいった。


「このような未曾有の事態を生きているうちに経験することはそうそう無い。私たちができることは、この状況を、体験したことを、記録し、記憶し、語り継ぐことです。そのために私たちのような研究者がいる。
大変な目にあったけれども、忘れていくことは簡単です。
体験した人たちは貴方たち世代、貴方の親世代、そして、その親世代のみ。次の貴方の子供達の世代は、この痛みを知ることはできません。だから記録するのです。情報を収集するのです。そして語るのです。
私たちがこの瞬間、何を感じて、何を知ったのかと。
知識は武器です。知っているということは本当に強い、支えとなります。
辛くて苦しい現実もありますけれど、その現実から目を逸らしてはいけないのです。」


こう話す、教授は先程までのおどけた感じは一切消えた。
しっかりとした語調、固い声色。確固たる眼差し。
あの時、あの言葉に、確かに僕は震えた。
僕らがこれから勉強していくことは、何の役にたつかはわからないけれど、その時知りたい、と思った衝動、掴んでおきたいと思った決意、それらはきっと僕を突き動かしていくのだろうと思った。
目を背けてしまいたくなること、耳を塞ぎたくなることは沢山あっても、
どうしても感じてしまう。
感じてしまうのなら、僕は把握して、人に伝えていかければいけないと思った。
そして9年前に震えた僕は、今も震えている。
震えがが響きとなって、届けばいいと思う。
だから僕はこうして綴る。
良いか悪いかではなく、僕が感じたことを。
その記録や記憶が、誰かを繋いでいくのだとしたら。



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青日タロウ
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