【映画評】三島由紀夫 vs 東大全共闘 50年目の真実
わたしは創作物を愛でるにおいて、
創作者の人格にはさほど興味がない。
音楽もそう。楽曲を好きになっても
作者に興味を持たない。
それが自分が年を重ねたせいか、
(年齢を重ねると他者との隔たりが
どこか綻んでくる。他者に興味が出てくる。)
三島由紀夫文学にあまりにもここ短期間で
濃密に触れ合ってきたせいか。
ふと、動いて話をしている彼を見てみたくなった。
単純なる好奇心で見始めたこの映画を
気が付けば前のめりになって観ていた。
東京大学法学部の出身の天才作家三島由紀夫と
当時現役東大生で
全共闘の渦中にいた1,000人の若者。
それがどうも対立の形で
相まみえて論争をする。
ここまでの前情報、
印象しか持っていなかった。
わたしは昭和の末期に生まれて
平成に育ったので
右翼や左翼というカテゴライズでさえ
どこか古典的なもので
身近なものでなかったから、
この手の話題の度に
この「闘争」の由縁がなにか
何を境に左と右になるのか、
何を相手取って戦っていたのか、
そのすべてに正直に関心がなかったし
関ヶ原の戦いと並列で頭の隅に置いていても
まったく問題のない現代に生きていると思っている。
そうして、大半の日本人がそうであると思う。
当時を生きていたわたしの父でさえ
単なる混沌とした昭和史の1ページとしてしか
捉えていないし、
本編に出演していた
70代になった当時の東大生も
どこかしらそのような印象であった。
そして渦中の三島由紀夫はいない。
彼はひとり戦って死んでいる。
まず、当時の東大生と三島由紀夫の言葉が
はっきりいって全然頭に入ってこない。
これはわたしに学識とボキャブラリーのないせい!
解説してくれる何人かがいてくれたので
そこでようやく全体の意図は把握できても
三島由紀夫と、特に芥正彦氏が発言する内容は
十分に哲学に通じて
さらに自分の哲学観のある人間でないと
言葉が宙を舞って永遠に降りてこない状態になる。
あの場で全員の東大生が三島と芥氏の発言を
本当の意味で理解していたのであれば
日本は今また違った世界になっていると思う。
会場でぽかんとしていた学生もいたのではないか。
知の頂き。
それを垣間見れただけでも十分に価値のある時間だった。
それはいつもわたしの尊敬する羨望の的である。
当時の学生にはあんなにも
哲学的思想が身についていたのかと驚愕した。
暴力に訴えながら、「他者」「自然」
そして「持続性」
そんな言葉がスラスラと出てきて
そして三島は
サルトルの「存在と無」を持ち出し
エロティシズムまで論じる。
「世界とエロティシズムだけで繋がっていたかった」
そういった三島にとても共感したのと同時に
それだけでは満足できない、
精神性だけでなく肉体への発現と
行動に駆られていったのは自然な流れだったのだなと納得した。
途中、解説の平野氏が三島由紀夫の歩んできた
時代的背景とその心理作用について
とても的確に
お話しされていて一言一句頷いた。
学生になくて、三島由紀夫にあったのは
「死への覚悟の経験」だと思う。
三島はもう覚悟をしていた。
三島由紀夫は昭和の始まりと共に生まれて
青春の時代を戦争と共に過ごした。
徴兵検査まで受けたのだから死にに行くことの
はじめの一歩を踏み出したことがあるのだ。
生きながらえて終戦を迎えても、
その踏み出した一歩は
三島にとってはとてつもなく重く、
平野氏の言った通り、
1920・30年代に生まれた日本の男性にとってそれは「運命」に他ならなかったのだと思う。
そしてその「運命」の歯車を回していたのが
「天皇」であり「日本」だったのだから
自分を愛するなり守るなり語るなりするのは
即ち国を、天皇を愛し、守り、語るのと同じだったのだ。
わたしはそう理解した。
死に対して振り返らない、臆病を見せない。
これは三島が書く多くの日本男児の姿だ。
「エロティシズムだけで繋がっていたい」
そう思わせた世界との関係性が
もしかすると戦前の日本にはあったのか?
わたしには想像もできないけれど。
そうだとすると、
戦争で失った多くのものの中に
三島が思う他者とのエロティシズムな関係性というのも存分に含まれているのかも知れない。
対して学生は純粋で、
いつだって若者は自分が世界を変えられると
思い込める生きものであるし、
戦後に生まれているのだから
何もないところから羽ばたいているのにも関わらず、そこにはもう国の体をなしていない
思想も国家としてのプライドもずたずたにされた後の敗戦国としての日本の姿しかないわけで
若く知的な自我がこれを拒否するのは当然だったと思う。
年長者は戦争で散々な目に合っているので
米国には逆らわない。
敗者としての振る舞いがある。
大人しく政治をするのが、三島の言うように
「当面の秩序の維持」に精一杯。
これに反発する健全な若者。
日本が敗者としての振る舞うのを
黙っておけない三島由紀夫。
三島が「天皇」にこだわって、
学生たちがそうでないのは
戦前の日本を知っているかそうでないかで
やはり目指していたところは三島の言う通り
出発点は違うけれど「日本という国のプライド」だったのだろう。
この映画のサブタイトルに
50年後の真実とあるが
この論争の1年半後の三島の自決と
東大生たちのその後という意味と
もうひとつわたしの思うのは日本の真実だ。
戦前はもちろん、戦後の日本も知らない
日本が負けたことは知っていても
それがもたらすものがどういうことか
これが生まれてずっとこの調子なのだから
そんなことを考えもしない。
三島が訴えた憲法の改正も
政治的な話題全般でさえも
ありふれた話題ではなく
民衆は諦め、無関心で愛国心など辞書にしかない言葉となっている。
ここに三島の言葉を重ねたとき、
わたしたちはどう思うか。
そんなことを伝えているのでは?と思う。
時代背景が違いすぎて、
そして資本主義の暴走を止められない現代では
言葉の力も国家としての存続の意義も
全く別のものになってしまっているので
直接的には何も訴えてはこなくても
わたしは三島由紀夫の純粋さを抱きしめたい。
ひとり戦って、そして刃を他者ではなく
己に向けたその思慮深さと終始の美しい思想。
そして残していった素晴らしい文学。
全てを称えたいと思う。
素晴らしい日本人がいた。
それを教えてくれるいいドキュメンタリーだった。
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