作ると退屈
「演劇ユニットせのび」のファンで彼らの公演には必ず足を運んでいるが、演劇ファンは名乗れない。あまりにも他を観ていない。
今年はたまたまいくつか他劇団の作品を観たので、少しだけ感じたことを書こうと思う。
批評的に語るのは良くない気がして、特に面白かったもの以外はSNSやアンケートでコメントをしないようにしていたのだが、ノーコメントとした作品はどれも共通して「知らない誰かの出来事」に感じられた。メタ表現の有無やファンタジーかどうかに関わらず、その作品世界がこの世界とどこかで繋がっていると思えないと、作品が観客には関係のない誰かの出来事になる。関係のない、知らない誰かの出来事は退屈だ。
頭で「作る」とそうなるんだと思う。作ると虚構に見えてしまう。作らなければ、ファンタジーもニセモノにはならない。現実世界のほうが虚構ではないかとすら感じられ時空がぐにゃりと歪む。ここまではほぼ脚本の話。
演出、演技で気になったのは、言葉をどこに向けているか。空中に放ったって、誰にも当たらない。空中に放ったのが見えた途端にやはりそれは虚構になって、こちらには関係のないことをそちら側でやってるんだなと感じてしまう。あと、演出が透けて見えてしまうと、それも作りもの感を増してしまう。
好みの問題と言ってしまえばそれまでだけど。