ノアの泥船
盛岡劇場で八時の芝居小屋観劇。今日はこれを観に宮城から来ました。そういう客もいるんです。
お目当ては、とうほく学生演劇祭2023にて大賞・演技賞を受賞したというどろぶねの「ノアの泥船」。作・出演の渡邉さんの一人芝居。せのびの「park」への出演以来、注目しています。
ネタバレ気味になりますが、観た人と作者にわかる感想を書きますね。
明日の体育で発表しなくてはいけないダンスを徹夜で練習する学生。やらなくてはいけないからやってるけど、超客観的に見たらこれは何なんだろうという時間と試練。怠けたわけじゃなく、自分なりに毎日を過ごしていてもやらなくてはいけないことは積み重なっていく。でも、これって本当にやらなくてはいけないことなの?私だって頑張ってるじゃん。それはこれまでの人生全てに当てはまるかのような不条理。
しかし、体育の授業を迎えることもなく、ミサイルによってこの国が滅びる少し前の出来事であることが冒頭から提示されている。
震災のときの、岩手県内陸にいた我々が感じた「不幸ポイントの少なさ」や被災者と非被災者のどちらの顔をしたらいいか探る感覚、震災以降様々な作品で表現されたように多くの人が共通に持った感覚ではあるが、この作品ではミサイルを待ちながら「不幸ポイント」が横一線になること、少なくとも最不幸側に自分が属することへの複雑な安堵のようなものを示すのが新鮮。
その安堵は「助けて」と言える安堵。「助けて。私も大丈夫になりたい」。身近な人の死すら経験したことのない若さの彼女にとって、死の実感は薄く、それに比例するように生の実感も薄い。彼女がなりたい「大丈夫」は「ミサイルによる死からの回避」と「体育のダンスがうまく乗り切れること」で大きな差がない。生きている実感がない日々を過ごしている焦燥。ちゃんと生きたい。怠けたわけじゃないのに。頑張ってるのに。
この若者(だけではなく実は僕の年齢になってもそれは続くんだけど、それは人生が進んでからのお楽しみ)が気づいてしまう生きている感覚のなさと、ファンタジーとは言えないミサイルの危機と震災への感情と、30分に盛り込むには大変な内容だけど、うまく表現されていたと思います。
表面的な軽やかさや、あるいはその逆の重い題材の上澄みだけを受け取られてしまう心配もややあるけど、コンクール的には大丈夫かと。むしろ「じゃあ、また」で切った電話の説明もいらないかもね。またはなくても「また」って言うんだ、とみんなちゃんと拾えてるから、お客さん信じていいかも。
スマホいじって寝落ちしそうになったり、お菓子を「無」で食べてたり、間の使い方に度胸あるし視点も良いし、やっぱり上手だな思いました。
面白かったですよ。全国、頑張って。