せのびして届く場所
演劇ユニットせのびの公演は、第2回公演から全て観ている。第1回公演の作品は再演を観た。当初から良いと感じたところは変わっていない。ストーリーで進める作品ではないし、主義主張のある作風でもないので、「わからない」とか「何を言いたいのか」と言われがちなのも変わっていない。
そんなものなくたってよくて、作品を通して観客の中の何かしら感情が動いたり記憶が呼び起こされたり、それで十分。と僕は思っているし、彼らの作品の方向性はそういうものだと思っている。人に薦めるときにも説明が難しく、結局今書いたような話をすることになる。
わからなくてもいいと観ながらも、それでも最初の頃は伝わりにくさを感じるときもあった。どうしても観客は物語を、主題を、意味を考えてしまう。でも日々はそういうふうには出来ていない。椅子から立ち上がったことに説明できる理由がないときだってあるはず。歌いたいのは悲しいからや楽しいからばかりではなくて、歌いたいから、のときもあるはず。星のことを知らなくても星空がきれいなように、木々の一本一本は見えていなくても山並みが美しいように、わかっていることで世界は出来ていなくて、それでもちゃんと美しいし、何かは起きている。きっとそんな風に、青葉くんに見えた景色が具現化されて作品になる。わかりにくいまま具現化されるものもある。もちろん細やかな演出はされているけど、演出では説明できない動きも好んでいるような気もする。それが偶然で必然だから。
コンクールのファイナリスト選出が続いたとき、ファンとしたら「ほらね」が正直な感想だった。ジャンプまでしなくても、目一杯のせのびでタイトルに届きそうな場所にいるのに、なんだか世間に伝わってない気がずっとしていた。いつまでも「若手の青葉くん」て感じが地元にもある気がして、いやいや彼はもうその位置にはいないよと感じている。ただ、クラスが上がっても全国の場ではまた「若手の青葉くん」っぽい感じもあるから、それは特性なのかもしれない。
第11回公演はこれまでやってきたことをベースに、わかりやすく観やすい作品になっていたと思う。フォームを崩さずにこのまま、もっと良い意味でエンタメにするなら「振り」が小さいのかなと感じた。
キッチンの2人は最も観客を揺らす可能性がありそうなのに、「カレーを出された」などの面白い会話もサーっと流れてしまい、大事な「同じものを食べてたね」や2人の関係性の強弱もサーっと流れた印象だった。魂の結びつきが強くても、現世での結びつきがほどけやすいときもあるよねでいいならそれでいいんだけど、別れの慰めにはなるけど、それじゃあ寂しいじゃんとも思った。そこについては敢えて「主題はどこ?」と思った。みんないつかどこかで繋がっている、に混じっていたほどけやすさについて、ね。それを明確にすることは基本的には不必要だとは思ってるけど、作者が気づいてるポイントだと思うから「曖昧」あるいは「解なし」という答えを見たくなる。
エミリーが「ママ」を「おかあさん」と呼ぶ混線も、「おとうさん」を「パパ」に一度訂正したくらいでは文章なら残るけど観劇中には流れてしまう。「え?おかあさん?」みたいにあとから拾うのは好きじゃないんだと思うので、「振り」を少し強めにするといろいろ流れていかないんじゃないかな、と思った。知らんけど。
知らんけど、なんだけど、「少し振りが弱いのでは」の仮説を思い付いたので書きました。