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学校で書いた、5年後の自分への手紙

専門学校の提出課題に、
5年後の自分に宛てて手紙を書く
というものがあった。

書かなければいけない内容が既に決まっていて、書いた内容は先生が読むらしいものだった。

絶賛遅めの反抗期中の私

「中身を見られてもいいような、
未来の自分への手紙とは?」

ああ、本当に時間の無駄だなあと思った。

そんな中で綴った手紙をなぜnoteの投稿にしようと思ったのか、その意図は自分でもよく分からないのだけれど…。

何を題材にしても変わらないか、と思ったので、
一部名称などは変更を加えましたが、
内容はそのままに投稿してみたりします。


手紙の本文について

はじめに
手紙の内容を自分ではない人に読まれることが本当に嫌なので、これを先生に読んでほしくはないです。
課題という前提の上で読んでほしくないというお願いは無理も承知しておりますが、あまり意味のない文章を書きたくないと思っているので、本音を記載します。こういう生徒もいるんだな、くらいの認識で捉えていただけると幸いです。

5年後の自分へ
21歳の葵です。
5年後の私がデータベースの手紙なんかを読み返しているわけがないので、この手紙を綴る価値がまるで分かりません。
きっと5年後の私なら、
今の私の心情を分かってくれると思います。

この行為自体に意味がないわけではないけれども、それをどうやって残すかは大事だよね。
しかし、残念ながらデータとしての作成・提出を求められてしまったので、内容はある程度考えて、ちゃんと書くよ。

(そもそも手紙を提出という異常行為が私には理解できない。)

(こういう感情ってさ、綴ること自体に問題はないと思う。だって、本来こういった手紙は私だけのためのものであって誰かのものではないし、導入で書いたからね。読んでほしくないって。その意図はこれだから。

それでもこうやって批判の言葉を綴ってしまっているということは、どうにかこの学校の大人に対して反発したかった、抵抗したかった、分かってほしかったという情けない叫びだったのかもしれないようにも思う。
生きるのって難しいね。勝手に難しくしているだけか。またあの人に怒られちゃうね(笑))

(ここまで綴って、そもそも「課題」であって読み返すということが意図されたものではないか、と気付いた。
本当にこのテーマで行う意味がわからない。)

さて、やっと本題。

私は大事にしたい人を大事にできているのでしょうか。
相変わらず「大事な人」を
「依存相手」と誤認していませんか。
私はそのあたりの区別が鈍っていて
よくわかりません。

とは言ってみても、私がとりあえず今大事にしたい人たちと一緒にいれば、
自ずと「好きなことで生きていく」ということが叶う気がしています。

今は心に痛みをつけてくる環境かもしれないけれど、きっと数年も経てばそういう人たちの事も忘れる、と信じています。それは5年後の私が証明してください(これによって思い出させたらごめんね)。

本当は仕事もやめて、大好きなお酒と食を極めて、アタルとかenとかうさぎ亭みたいな場所を今すぐにでもつくりたい。

でも、少しだけ社会経験。生き急ぎすぎているらしいので、ワンテンポゆっくり生きよう。(本当は1秒も無駄にできないから内定も辞退したいけどね。社会なめすぎ、らしいのでやめときましょう。)

分かっていると思うけれど、自分の人生は自分でしか責任をとれません。
今の私は学校も嫌い、そこにいる人間も嫌い、奇跡的に仲良くできているのが大堀、山下、諏訪、ついでに高麗。
(掲載には問題がないとのことでそのまま記載をしています)

あとは全部自分が世界を広げて出逢った友達だけです。
つくづく学校選びのセンスがなかったね。

でも選んでしまって拘束されることは仕方がないので、ギリギリ頑張って卒業しようと思ってはいます。望まない場所で残りの時間耐えたところで、という感じはしますが。
卒業することが家族への恩返しということにして、あと少し頑張ります。

きっと向上心が尽きない私、
一生現状不満足だと思いますが、

今の私が思い描くのは、
大事なたちが集う場所をつくること、
やはり大事な人を大事な人に紹介したい繋ぎたい、それが私の願いです。
自己満足すぎる願いです。理由はわかりません。

ただ、どうでもいい人間のためを考えるよりも、
自分が大事にしたいと思える人を大事にすること。
これが、この人生、命をつかって成したいことなのだと思います。
そう思える人を、この人生でたくさんつくれたらこれ以上ない幸せなのだと思います。
中途半端な人間関係ほど、気持ち悪くて吐き気のするものないしね。
それは今までの経験上、自分が一番わかっていると思います。

大事にしたい人、繋がっていたい人のことは、
恐れず妥協なく譲らないでね。

あまりにも悲観的に生きていたのに
それでも熱意が消えなくて、消せなくて、
人生を諦めたくないと思ってきた理由は、きっとこれだった。

人の心を、手の届く場所からあたためられる人生でありますように。

その信念さえあれば、5年後のあなたには何も望まない。

無理はしても無茶はするな。
大事な人に、自分が理由で悲しい顔をさせるな。

健闘を祈る。

2024/11/13



最後に。
お前は、手紙の中身を見られることが嫌で、
この時間を哀れんでいたのではないのか?
そう思った人も中にはいるかと思います。


これは供養なのです。
そういうことです。

25.6歳になる私よ、とがりにとがりまくった21歳の私のことを、どうか穏やかに笑って懐かしんでくれよな。

おわり!

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