「Arroganz」番外編
森の奥深く、幹の隙間に隠れるように建てられた手狭な家屋にて、幼き淫魔ノウェルズは育った。彼女は物心ついたときから老夫妻との血縁関係のないことを了解していたが、どこでそうと気取ったか、きっかけとなる記憶は見つからない。いうなれば、はじまりから至極当然に、部外者の認識をもって森に住んでいたといえよう。
ノウェルズは淫魔であること、老夫妻には彼女を世話しなければならない理由があること、次第に彼女はおとなの余所余所しさの内訳を理屈で理解した。やむにやまれぬ事情ありきでノウェルズを世話する老夫妻が、淫魔の眠ったはずの深夜に囁き交わす。幼い子供を気遣う内容でもあり、ノウェルズを歓迎していないらしいことが透けて見えるのに、子供の手が寒さにすこしでもかじかむようなことがあれば急いでこれを暖めて、暖炉に一番近い位置に子供を据えるのだ。彼等はノウェルズを嫌っているのではない。長い時間のなかで愛し始めているからこそ、扱いに困っている。
老夫妻が曖昧で中間的な感情でノウェルズを育てたことで、彼女のほうでも老夫妻を憎むべきか頼るべきか非常に曖昧な状態となり、子供は疲弊していた。老夫妻を見つめたところで、この場にいない、遠く暮らす息子にこそ思いを寄せている事実が際立つばかり。三者の絆は輪を形成しきらずに終わり、合わせた目線は外れ、打ち明けようとした言葉も喉に引っ込んだ。息子と淫魔は夫妻のなかで平等ではない。向こうは望まれ、ノウェルズは望まれずして生まれ落ちたという差を必ず意識させられる。
暴力と虐待はなく、愛の欠片が散らばるのに隙間風でどこかが冷える、心細い環境。子供は真夜中でも屋外に出て、暗い森の闇を凝視しながら、あの先へ駆けてはどうかと自問した。何かあるだろうか? 何もあるまい。森の闇が死に直結する道であろうと、立ち止まったまま木のように枯死していくよりは、愚かな獣としてでも我が道を、闇の道でも構わぬから走ってみたいと彼女は夜気に吹かれていた。教育を受けて開花する性分の他、特に刺激を受けなくとも示す傾向があるとすれば、この淫魔の幼体は野心家の気質を備えているといえたろう。手狭な小屋とはいえども衣食住に不足は無い。彼女はそれを振り切り、危うい立場となり、孤立してでも構わないと冷たい夜の闇に飛び込むかを迷うのだ。しかし、ノウェルズが勝手なことをしでかせば老夫妻の命は無いかもしれない。何らかの厳しく重い、もしかすると惨たらしい罰を彼らは受けるかもしれない。ノウェルズの命は老夫妻に影響し、ひとつの命以上の責任を彼女は感じていて、己の軽率さによって夫妻が道連れとなることを漠然と恐れ、両足首を繋がれた錯覚と共に森で生きるしかなかった。
不変は良かれ悪しかれ有り得ず、夫妻が恐れ、ノウェルズが第三者の目に触れる時が来た。夜の静寂を切り裂く馬の嘶きと蹄の響き。松明を持つ兵士が現れ、戸口を濃い影で塞ぐ。彼等が子供にいちから事情を説明するはずはなかったし、老夫妻とノウェルズは共に無力であった。兵士が何気ない動作で燃える松明を小屋へと投げ入れると、火は床を舐め、壁を駆け上がり、瞬く間に天井へと及ぶ。
老夫妻は遠方に住まう息子が遂に死したことを悟り、父母としての苦痛に悶えたが、傍にいる子供を遺産と看做し、是が非でも守り抜こうという決意が燃え上がらなかったのは、懊悩の故であろう。淫魔の幼体を精一杯に世話し、少なくない時間を捧げたにも関わらず、窮地で憐憫を起こしがたいだけの躊躇いと苦しみ。クディッチの子でなく、全く縁のない子供であれば、夫妻の気質からしても、一般的な良心と善性のために子供を庇ったからだ。
全自動の絡繰のごとき無情さで一切が進行し、軋みをあげて死の入口が開いていく。黒煙と炎が子供の視野と呼吸を奪っていくなか、ただひとり、ノウェルズを見詰め、手を差し出す者があった。黒髪の男で、共に焼死の危機に晒されながら、不気味な沈着さで微笑みかける。
吸血種の男はノウェルズよりはずっと背が高く、カリヴァルドと名乗った。一方が手間をかけても殺害する意味を見出すのに、無償で救う者があるなら打算が潜むはず。子供は警戒したが、保身は意味の無い状況である。
「家族は一番強い愛情で結ばれているという。俺はお前を迎えに来たのだよ」
カリヴァルドの誘い文句に、ノウェルズは嫌悪を覚えた。他者と焼死したとて、ひとりでないから良かっただの、家族がいるだの、そうした慰めは成立しない。するだけの背景がノウェルズには無い。彼女の内側で猛烈に湧き出した抵抗感を言語化できる者はこの場に存在しなかったが、カリヴァルドが子供に晒す憂いの眼差し、それを気取ってノウェルズは彼を嫌うのだ。見ず知らずの者の傷薬になってやる気は無い、と。
子供は無力で我を通す力を持たず、進退窮するが故に男の誘いに乗った。死にたくないと訴えたのは本心で、溺死の寸前に打ち上げられる場所が何処でも構わないのと同じだ。二者の内情がどうあれ、カリヴァルドは燃える小屋から小さな命を救い出し、ノウェルズの両足首に長らく繋がっていた鎖からも解き放ったのである。
馴染み深い老夫妻と住処を無くして、彼女は悲しむべきであっただろうか。ノウェルズが新生活で得たのは喪失ではなく安堵だ。新しく引き取られた先は伯爵邸で、一室が与えられた。
ノウェルズの後見人は屋敷の当主ではない。兄を自称するカリヴァルドである。彼は年若く、頬の丸みを残す輪郭ながら立ち居振る舞いは完璧で、邸内に従事する執事や侍従、階上の家僕等と比較しても見劣りしなかった。森で拾われ、屋敷の主たる伯爵により庇護されたのはカリヴァルドのみであったはずが、彼が頑として譲らなかった為にノウェルズの存在は黙認、という形に収まったのである。
カリヴァルドは炎も恐れずノウェルズを救出してくれたが、義理を感じても愛までは飛躍しない。老夫妻とすら家族として成立しないのだから、出会ったばかりの相手が肉親であろうとも愛することは出来ない。そもそもが、端から兄妹と決めつけて、異様に馴れ馴れしく接するカリヴァルドは癪に障る。子供なればすぐさま庇護を求めて懐くと思い込んでいるのだろう。
ノウェルズは常に周囲の動向を伺う暮らしをしてきたせいか、本来なら聡明さと呼べたはずの知力を小狡く発揮し、伯爵邸を探り回っては家僕の上下関係、子供に対して隙の大きい者が誰かを看破し、邸内の勢力図を把握した。伯爵邸の家僕にとって、彼女は従順でおとなしく内気な子供であったろう。小さな淫魔はこの世で誰からも存在を望まれた経験がない。それゆえ、未成熟な精神の内側では利己心ばかりが育ち、強い防衛本能と攻撃性とをひた隠して過ごすようにと悪心が助言していた。誰かを信ずる必要はない、ここで上手く過ごして、期を図ればよい。果たして如何なる機会を得て、どこへ向かうべきかを彼女は知らずにいた。こうして迷えることすらも、初めて得たひとつの贅沢なのだ。
以前の暮らしにおいて、勝手をすれば老夫妻とて危ういという緊迫感と心細さがノウェルズにはあったが、伯爵邸で気にかけるとすれば、最悪の状況に陥ったとて己の生死のみで済む。誰かの命を背負わず、巻き込む心配の無いことの身軽さに浴し、ノウェルズはこれを自由なのだと感じた。
カリヴァルドの庇護下において、ノウェルズは厨房や画廊、図書室で蔵書に触れること、楽器に触れること、ペンを握って文字を書くことなどが可能となり、自分ひとりで不自由のある場合には幼い外見を悪用し、ものもわからないふりで家僕を頼って手伝わせた。伯爵邸では絶えず他者の出入りがあり、噂話が交わされ、来客を迎えて外界と通じる波と風の出入りがあり、子供は自分の頭上を素通りしていくおとなたちの喧噪に聞き耳をたてる。すると、どうやら誰もが市民権を有しており、何らかの職務や地位を与っているにも関わらず、どれほど下級のものであれノウェルズは身分なるものを所持できないらしい、ということに気付いた。まだ具体的に市民権だの倫理だのといった複雑な、一定水準の教育を前提とした観念を得るところまでは到達していなかったが、みんなに当然あるものを自分は持たないどころか、将来も持てないという不遇さを悟ったのだ。伯爵邸の囲いを抜け出しさえすれば、聞きかじった知識にある職種のなんらかに就けると夢想したが、そのような権利は淫魔に認められない。ノウェルズの頭髪は銀色をして過剰に目立ち、遠くからも輝く。それが染料を受け付けないので布を巻いて隠すしかない。髪をどうにかしたとて、更に誤魔化しの効かない深紅の双眸を備えているのだ。このように派手な色は吸血種の一般的社会には存在せず、異常な目立ち方をする。伯爵邸内でもノウェルズの色を気味悪く思う者は存在した。この不自由な身で、誰との縁故もなく生き延びていくことは難しかろう。強かさと、それ故に生じた煩悶で気が塞がって憂鬱に窓を曇らせていると、カリヴァルドだけがノウェルズの溜息に気付く。
「あまり勝手をするなよ。お前は実に小狡いやつだからな」
知った風な忠告を与え、馴れ馴れしくノウェルズの頭に片手をおいて髪を撫でた。彼は続ける。
「俺に似ているよ」
小狡さが自分に似て愛着が増す、見上げた彼の表情はそう語っている。ノウェルズは鼻白んだ。共通点を必死に探し出して、それみたことか、やはり我々は兄妹だと喜びたくて仕方がないとみえる。彼はノウェルズではなく妹、という概念と幻想を見詰めているのだ。カリヴァルドの眼差しにこもる期待めいた温度は押しつけがましい生々しさで、ノウェルズは苦い思いがする。
彼に媚びて擦り寄り、求められる妹を演じて生きる道もあるだろうが、自我が強く野心家な割に、ノウェルズは虚偽を嫌う。欠片も嘘をつかない、そういう類の清さではない。高い洞察力を備えるが故に、何を言えば相手がどれほど傷つくか目星がつくという悪しき知恵が回り、手段を選びたいという漠然とした抵抗感を持っていた。気高さのなんたるかをしらずとも低俗さは直感するものだ。しかし、導がなければ幼き魂は中間を彷徨うのみで、あまり長く理性的に振る舞うことは出来なかったろう。
髪や瞳は取り替えられず、社会からは拒絶されている。見聞きした情報が小さな淫魔の四方に壁として高く聳えていくのに彼女自身も気づいていたが、打破するためにカリヴァルドを利用し尽くす、そのために生きていくことは出来そうもない。彼を頭に何度浮かべてみても、そんな仕打ちを受けていい存在ではなく、好き嫌いは関係がなかった。かろうじて存在する良識はノウェルズ由来か、あるいは老夫妻にしらず感化されたが故か、彼女自身にも定かではない。
ある朝、カリヴァルドが慰めと詫びを述べて、数日を留守にするといって二者は別れた。子供は普段と変わらぬ白い頬をして過ごしていたが、少しして軸を抜き取られたような無防備さで床に転がった。高熱をだして倒れたのだ。結局のところ、伯爵邸でノウェルズの心身に誰が心を砕き配慮しているかといえば、カリヴァルドのみである。傍にいれば厭わしいのに、離れれば否定できないほど心細い。カリヴァルドが予め手配し、傍付きとして残していった女中が看病を続けたが、子供の苦しみは癒えず、熱も下がらず、意識を無くし、再び瞼を開いたのは夜更けのことであった。
薄暗い室内には燭台がひとつ灯されていて、火に従って枕元の陰影が震える。ノウェルズは思う。申し訳なさそうに出て行くのであれば一番苦しい時に駆けつけて欲しいが、あの男にそんなことができるはずはない。カリヴァルドには自らの立場があり、地位があり、日々忙しく過ごしており、所在なきノウェルズとは違うのだ。頭のなかで恨み言を述べるということは、彼に幾分かの期待を寄せていて、縋っているだけ。小屋が燃え盛るのを背にしたカリヴァルドの姿が瞼裏に蘇る。
己のうちにわきあがる矛盾に苦しみながら、ノウェルズは小さな拳で掛布を握りしめ、額に汗を流し、蒸れた寝具の中で寝返りを打つ。傍らで衣擦れの音がして、ノウェルズの額に湿った布が乗せられた。熱い瞼が心地よく冷える。意識が朦朧としていたので孤独と錯覚していたが、寝台に椅子を寄せてカリヴァルドが子供の様子をのぞき込んでいた。
どうして、と思ったが、彼の事情に気を配るための言葉を発するにも、子供は弱り切っていた。ノウェルズ自身に自覚はなくとも生死の境を彷徨って、ようやく容態が安定したところなのだ。声を発するにも生命力が不足していて、彼女の唇はただ痙攣するのみ。
カリヴァルドは知らせをうけて急いで戻り、どうにか医師を呼びつけて、それでも淫魔の対処法は吸血種のそれと異なるであろうし、後は運に任せるほかないと申し渡されていたことで、ノウェルズの意識が回復したことの重大さを彼だけが理解していた。
「ねえ、今は沢山お眠り。そうすれば朝には回復すると医者が教えてくれたのだよ。俺がここで、お前を見守っているから。それとも他に必要なものがある?」
慎重に、子供の幽かな吐息と、弱っていく心音を聞き取ろうとするかのようにカリヴァルドは身を屈めた。家を無くし、養父母を喪い、大幅に環境が変わった。子供の衰弱は慣れぬ状況に必死で適応しようと気を張り続けた結果でもあり、そのことに気が回らなかったことでカリヴァルドは保護者としての心痛を感じており、彼の眼差しには後悔と労りとが宿っている。
「水を飲むか?」
尋ねて、ノウェルズの身を起こすか迷った男の腕が彷徨い、小さな体を支えようとする。子供はその腕を掴み返し、熱に干上がり、ひび割れた唇を震わせた。
「私達、家族じゃない……」
子供を慰撫せんとしていたカリヴァルドの動きが停止する。子供には、男の動揺が手に取るようにわかった。ノウェルズとは全く無関係の場所で作り上げられ、彼が夢中になっているらしき家族という幻想に刃を突き立ててやった手応え。傷つけてやった、という実感が。
「会ったばかりで家族になるなら、誰でも貴方の家族になれるよ」
皮肉った笑みを小さな唇の上に浮かべてカリヴァルドを見上げたとき、ノウェルズは予想外の衝撃を受けた。突然に血の気が引いて、泥のような汗で全身を湿らせた肉塊になったと感じ、高熱すらも一瞬は忘れた。
他者を傷つけて悦に入ることの昏い喜び。まだそうとは理解されておらず、形も曖昧な道徳心が、卑劣だと己を糾弾し、魂と理性とに警告したのである。彼女は幼いが故に他者に対して残虐に振舞ったことも、意図的に誰かの精神を滅多刺しにしてやったことも初めてのことだ。とはいえ、発した言葉は撤回しても消失しない。彼女が初めて振るった刃はあまりに正確すぎた。子供の傍らに座るカリヴァルドも青ざめて、片手が震えている。
ノウェルズは頭の中で、所詮は自分とそう違わない、未熟な、そのくせおとなのふりをした子供ではないかとカリヴァルドの脆弱さを頭のなかで批難した。自己保身に走らずにいられなかったのだ。彼女はカリヴァルドが流した見えざる出血と傷の深さを気取っていて、ちいさな胸は精神的な恐れから早鐘のように脈打ち、咎人のごとく目は泳いでいる。切り裂いたのは他ならぬ自らでありながら、被害者の傷を直視できないかのように。
「確かに、そうだ」
カリヴァルドは吐息し、眉を潜め、重々しく同意した。
「俺は家族に拘ってしまう。どうしても」
カリヴァルドは続けた。家族に裏切られたとしった直後でも、まだ守れる家族がひとりだけ残っていた事に彼は安堵したのだと。血縁関係がありさえすれば誰でも良く、ノウェルズを弱々しい妹として守ってやる、そういう自分に浸って精神を保っていた節があると認めた。
「でも、今は違う」
カリヴァルドは体温を無くした両手で、怖々とノウェルズの小さな片手を包む。無遠慮な接触は、この時ばかりは勇気の証と言えた。傷ついてすぐ、傷つけてきた相手と手を取り合う気になれるだろうか。彼の無遠慮さは、ノウェルズへの怒りが一筋もないことを示している。
幼き淫魔もまた、動揺のために色を無くして青ざめ、男の手を振り払う力もない。出会ったときは炎に照らされるなかで鮮烈に輝き、紅玉と紫水晶にも劣らぬ光を双眸に湛えたはずのふたりの子供たちは、薄闇のなかでおぼろな瞳を見分けようと凝視しあう。
「今は、お前を知りたいと思っているよ、ノウェルズ。兄と認めて貰えなくても構わないが、お前と血の繋がりのあることを嬉しく思う自分を払拭できずにいるのも事実だ。理屈としては他人といえる距離感で、お前の言い分が正しい。わかっている。だけど、そこで終わらせたくない。どうしてか、俺は……家族というものが」
彼はそこで言葉を止めた。ノウェルズは肩で息をしながらも、張り付きそうな唇を動かして尋ねる。
「あなたにとって、家族ってなに……?」
カリヴァルドはノウェルズから目を逸らしはしなかったが、子供をみつめたまま暫く硬直した後、視線を外さずに首を左右に振る。わからないのだ、彼にも。答えなど持ち合わせていない。
カリヴァルドを頼るべき存在ではなく、利用価値のある相手として見做していたのはノウェルズなのだから、彼が頼りない返答を寄越したところで失望のしようもない。沈黙を共有しているのに、青ざめるほど傷つけられたのに、カリヴァルドに離席する様子はなかった。静かに、戸惑いの余韻に揺れながら留まっており、それが却って真摯な力を双眸に与えている。
伯爵邸に来た当初と比較して、ノウェルズがカリヴァルドへの嫌悪を強めたのに対し、彼のほうでは傲岸不遜であった態度は次第に軟化し、ノウェルズの様子を伺い、精神性を探って見えた。無礼に振る舞ったのは彼が先だが、考えを改めたのも早かったのだろう。そんなことにも気付かないほど、ノウェルズのほうがより傲慢になっていたのだ。
ようやく互いを知ろうとしたのに、わからない、という結果ではあったが、カリヴァルドと話すうちに子供の呼吸の荒さは徐々に落ち着いてきていた。変わらず熱の倦怠感は強いが、嵐が知らぬ間に去ったかの如く、不安が勝手に和らいでいる。
「お前のつらいときに、こんなふうに話し込むべきではなかったね。続きは回復してからにしよう、今は横におなり」
ノウェルズが呆然としていると、カリヴァルドが子供を再び寝かしつけようとする。彼女は弱い力で抗った。腕に力を込めた時、彼を突き飛ばすか迷った膂力は、けれどもすぐに脱力する。炎に包まれ、焼死しかけた夜にカリヴァルドが力強くノウェルズを抱き上げたときの腕や胸の感触が蘇ったのだ。ノウェルズが手酷く傷つけてやろうとした悪意を彼がわからぬはずもない。それでも尚、慈悲を与えんと寄り添ってくれるこの者は、一体いつまで、どこまでノウェルズにとって他人でしかないのか?
彼が傍にいてくれてノウェルズの苦しみは和らぎ、激情をぶつけるほどの気力が復活したではないか。気付いてしまえば、子供は意地の張りどころを喪い、身を起こせなくなった。カリヴァルドの片腕に弱々しく自重を任せる他ない状態で、彼女は呻く。
「疲れた。御兄様、一緒に寝て」
添い寝の要望を受け入れたカリヴァルドが弱った子供を抱えて寝台に横たわり、ノウェルズを抱き寄せる。彼への嫌悪感は遠ざかり、霧散したかのように思い出せず、肌のうえに蘇りもしない。柔らかい体温と呼吸音に包まれて、緩やかに忍び寄る眠りへと引きずり込まれていく。
御兄様、御兄様と繰り返し彼を呼び慕うことは、単にノウェルズが生きていくために必要な作業で、彼は利用すべき相手なのだろうか。誰をも信頼しないことが自由なのだろうか。子供の目元は濡れていた。慚愧の念に堪えず、我が身を恥じた自責の涙である。
子供は夜明けに眠りから覚め、男の腕のなかで瞬く。長い睫毛が彼のシャツを掠って乾いた音をたてるほどに近い距離で、殆ど胸に頭を埋めるようにして一夜を過ごしたらしい。屋内といえど早朝は冷え切っており、寝具の内側にのみ体温が宿って居心地が良い。体中を蝕んでいた痛みと苦しみは消え去り、ノウェルズの呼吸は安定していた。深く寝入っている男を無断で覗き込むと、顔色からして色濃い疲弊が見てとれる。誰のための心労か明白であり、ノウェルズはこの日を境に、所詮は子供と彼を侮ることをやめ、態度を改めた。
カリヴァルドは容易に存在を外界と接続され、ノウェルズよりもずっと自由に行き来が可能である。ノウェルズより世を知り、ものをしり、彼女を心身ともに庇護してくれる情に厚い存在で、それから大事な味方。そういう見方はいつでも可能だったのだ。宝と名付け、相応しく扱うと決めた時から輝きが宿り、大切にしようという決意から価値が生じる。
伯爵邸から出ることのできないノウェルズが教育機関で学び、公的な身分を得るために外部へ働きかけんと奮闘してくれる者が彼の他にあろうか。淫魔の不遇さに心を痛め、周囲の誰より模範となるべき年長者たれ、と努力する姿を率先して認め、出会った時に命を救われた感謝を重く、深く受け止める道もある。このように捉え直すと、ノウェルズは彼の姿にますます深い敬愛と信頼を寄せるようになり、最早一欠片の侮りも存在しなかった。永遠に欠けない敬意を意識して、常に御兄様と呼び慕う。故に、兄が大切にする家族なる概念を蔑ろにするはずもない。
あなたにとって家族ってなに?
幼き時分の問いは兄を著しく傷つけたが、記憶のなかで困り果てていた彼ではなく、成長した自らが答えてやってもよかろう。家族とはノウェルズにとって誇りだ。どこで生きて誰と会い、何を成してもカリヴァルドの妹として看做され、噂が彼へと伝わる。恥じぬ自己を築かんと邁進し、名誉を風に乗せて届ける喜びをノウェルズは知っている。兄によって淫魔ながらに地位を得て、社会を生きるに至ったのだから。
了
本編
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