藤原定家と古代メキシコ
スタッフの営業トークに乗せられ、まんまと回数券を購入した僕は隔週で整体へ通う。今日でもう三度目なのだけれど、運動を1週間ばかりサボってしまったこともあり、まだまだ身体は凝り固まっている。今回は首回りがひどく固まっていることを指摘される。昨日、銭湯で外気浴中に天を仰いだ時にも首回りの固さを感じていたことを思い出す。日常生活で何かを見上げたり、見渡したりすることがなく、パソコンのモニターばかり見ているからだ。目が痛くなることはないけれど、仕事中にさす目薬が疲れに染み渡るような感覚が年々強くなる。
整体の後に上野へ行く。実家にいた時よりも上野に行きやすくなったことに最近気付いた。今の家は不便で仕方ないと思うけれど、近くに長居できるチェーンの喫茶店や熱いサウナ室と冷たい水風呂と薬湯のある銭湯があったり、悪いところばかりではない。上野で特に用があるわけではなかったから、行きの電車で何の展示をやっているか調べたら、「藤原定家ー「名月記」とその書ー」という展示をやっているようだった。『とめはねっ!鈴里高校書道部』を少し前に読んだから、書道を目に焼き付けてやろう、という欲望が渦巻いて国立博物館に行くことにする。いや、『とめはねっ!鈴里高校書道部』を読んだからだけではなくて、最近タイポグラフィに惹かれているのかもしれない。社内ポータルのダサさが耐えきれなくて、自分の担当業務に関する部分だけはせめて見やすくしてやろうとタイポグラフィあデザインに関する雑誌を読み漁って、昼休みに色々イジったりしていたのがここ1ヶ月の話だ。読み漁る、という表現は品がないけれど、僕はそういう読み方をたしかにしている。
藤原定家の書は達筆とは言い難いものだった。でも、定家流と称されるほど、独自のスタイルを築き上げているということは伝わった。藤原定家といえば、和歌の人のイメージがあったけれど、「明月記」という日記を数十年にわたって書いていたことを知る。流し読みしかしていなかったので、博物館にいる間は気付かなかったけれど、天文に関しての古い文献として参照されることもある日記でもあるらしい。
常設展もざっと見る。博物館の展示は美術館に比べて、あまり物語性を見いだせず、いまいち集中できないと感じてしまう。見る目が養われていないだけな気がするけども。阿弥陀如来の仏像の説明文になぜ前傾姿勢になっているか説明されていた。たしかに阿弥陀如来は前傾姿勢のイメージがある。極楽浄土から臨終者を迎えに来る様をその姿勢で表現しているらしい。面白い。
特別展で「古代メキシコーマヤ、アステカ、テオティワカンー」をやっていて、それも観に行った。日本史選択だったから、マヤ文明やらアステカ文明は全然知らず、テオティワカンに関しては言葉自体も初めて知るくらいの無学者だけど、想像以上に楽しめた。人はトウモロコシから作られたみたいな話とか、日本では生まれ得ないだろう神話を見聞きできて楽しい。テオティワカンにはピラミッドが3つある。太陽のピラミッド、月のピラミッド、羽毛の蛇のピラミッド。3つめのピラミッドは、ネットでは羽毛の蛇神殿とも呼ばれるみたいだけど。羽毛の蛇は、太陽がのぼるのを導く明けの明星、つまり金星を表す、ということが音声ガイドで解説されていた。だから、羽毛の蛇だけ異様な感じがするけれど、どれも天体をモチーフにしたピラミッドということらしい。僕も最近、天体に対して興味を惹かれているわけだけれども、こうして展示を観ていると過去のテオティワカンの人々、藤原定家とのうっすらとした連関を感じている。手相占いは統計学なんです、と言われるけれど、それに対して星座占いはその星座の象徴から紡がれるものである、ということを聞いたことがある。天体への興味は科学的な観点でももちろんあるし、星に込められたイメージ群を読み解いてみたいという気持ちもある。国立天文台の定例観望会に行きたいが、予定が合わず、9月末くらいになりそうだ。
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一人行動がそんなに苦ではないけれど、自分の考えが凝り固まっていくような気配がある。いや、自分と違う考えに対しての免疫が失われていく気配がある、といった方が正確かもしれない。全員が聖人君子である必要はないのに、それを求めている自分がいる。違う考えをすべて受け入れる必要はもちろんないんだろうけれど、意志の弱い僕は呪いにかかってしまいそうになるので、極論を言うような人とは距離を取らねば。今の自分にうずまくものを何か形に残すまでは。そんな気持ちで今だけはポメラとにらめっこしている。小袋成彬の『分離派の夏』に収録されている「042616@London」の一節の「芸術とは関わらなくても良いものなんですよ。なくても良いものなんですね。別になくても生きていける。だからほとんどの人は生涯に一つも作品なんか残さないわけでしょ。じゃあなぜ作品を残すか。じゃあ作品を残す人々、芸術家たちはそれを残すかっていうと、作品そのものが必然、小袋くんもそうだろうけれども。それを生み出さなければ前に進めないっていうね、作品という形に置き換えることによってひとつケリをつけていく」がめちゃ分かる、今の自分のフィーリング的に。MONO NO AWAREの新曲の「風の向きが変わって」の制作に関して、脳盗で玉置氏が今までは自分の気持ちを歌えればいいや、という想いで作っていたが、30にして広いところに届いて欲しいという感情が渦巻いて作ったということを言っていた。そのエピソードを聞いた後に聞くと歌詞の「甘ったれたまんまじゃダメか」がより意味を持って響いて、なぜか自分も勇気づけられた気持ちになる。
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