暴力的コミュニケーション
もう1年以上靴擦れしている。サイズの合わない革靴を何も考えずに履き続けた結果なので、自業自得。キズパワーパッドを貼ってみるが、なかなか完治しない。夏期休暇中、友人と遊ぶ予定をまったく入れなかったので、喫茶店に何回か行く以外には実家でぐーたらしていた。この機会に完治してくれと祈るが、マザー2のギーク戦のポーラみたいには祈りは届かない。
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今日は終日研修だった。デール・カーネギーという自己啓発本を何冊も書いているような人のコミュニケーションに関する研修だった。研修終わりに『人を動かす』という本を渡される。自己啓発本は前向きな気持ちになるので嫌いではないのだが、本棚にあまり入れたくなくて、保管場所が悩ましい。
座学中心と勘違いして研修に参加したら、ロールプレイイングだらけでびっくりした。あいさつは元気に、相手の名前を覚えよう、聞き手に回ろう、みたいな当たり前の話をロールプレイイングを通すことで、確かに大事かもしれないし、やった方が良いかもしれないという気になる。参加者が少人数だったこともあり、質問も活発に飛び交う。ある人が質問する。「他人に関心を持つにはどうすればいいですか」、講師は鋭い質問ですね、と言い、他の参加者の意見を聞いていく。「全員と仲良くなる必要はないと思う」とか「その人の良いところを見つけようとすれば良いのではないか」とか出てくるけれど、確信に迫ったような気がしない。講師はどういう回答をするのだろうか、と期待していたけれど、講師の側からの回答はなく、次のカリキュラムに進んでいき、もやもやした。
そういえば、イギリスの人類学者のブロニスラウ・マリノフスキが自身の本で「民俗学に関して言えば、私は原住民の生活に対してまるで興味を持てないし、その意味を認めているわけでもない。その疎遠なことと言ったら、犬の生活も同然だ」と書いていて、フィールドワークの最前線に立ったような人物でも、興味を持てないことがあるんだと、愕然としたことがあった。だから関心を持てないことは普通にあり得ることなのだと開き直って、割り切ってコミュニケーションを取って大丈夫だとか、そういう話がその場でできれば良かったのだけれど、家に帰ってからふとした拍子に思い出してしまう。自分の記憶力の無さを恨む。
東京03の飯塚さんが、新R25のインタビューでこんなことを言っていた。
嫌な奴を嫌な奴として捉えるんじゃなくて、その愚かしさを楽しむ、みたいなマインドを僕はまだ持ち合わせていない。でも、話のネタにしてやろうというモードになれれば、もしくは自分にもう少し自信を持てれば、そういうマインドで楽しめるかもしれない。
今日の研修の中で、デール・カーネギーの言う、他者と信頼関係を構築する原則について、学んだ。たとえば、批判、非難をしないとか。どれもあまりにも正しさを持ったものなのだけれど、しゃらくせえと思う。意見を違える人に対して、批判、非難という暴力的なコミュニケーションを経ずに、わかり合うことができるとは思えない。でも、これはお互いの理解を深めるための原則ではなく、信頼関係を構築するための原則についての話なので、別に分かり合うことは求めてないから間違ってはいないんだろう。昨日の「UR LIFESTYLE COLLEGE」で玉置周啓がこのように話していた。
僕は、ありのままの自分で良い的な価値観を良いものとしてきたが、その価値観に手詰まりを感じていたから、暴力的なコミュニケーションも時にはありなんだろうと思い始めている(物理的な暴力ではない)。ありのままのあなたに対して、「いや、こうした方が良い」とか「そうじゃないと思う」みたいな否定というか、相手の人生にかかわっていくような言動について、あなたをまったく否定せずに言うことは不可能なんじゃない?ポリティカルコレクトネスを御旗に掲げたキャンセルカルチャーとかはやり過ぎで、対立を深めていくだけなんだろうけれど。でも意見をぶつけていかないと前に進めない。
研修で学んだことで面白かったことは、相手を動かすためには話の冒頭に実例(エピソードトーク)を話して、最後に主張を伝える、と言う構成が良いという話。聞き手は話し手に共感することで強く動機付けされると、研修中で解説されていたが、物語ることの引力みたいなものをデール・カーネギーも理解していたということかもしれない。結論から先に言うことで言いたいことは伝わるけれど、それで相手を説得できるかと言うとそうではない。相手を説得したい時の話法みたいなものに僕らは簡単に心を動かされる(あるいは騙される)。話し下手の僕が取り入れられるかはまったく不明。今度会う時に詐欺師みたいな話し方をしてたら、笑ってその薄っぺらさをダメ出ししてください。
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