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木の下に立って

大きな木の葉が茂っている大きな木の幹のそばに立って下から見ると外から見るより木の構造、枝ぶりが良く見える。

あるいは、作っている途中のビルや家などの建物の中に入って見回すと、どんな作りか、全部は仕組みはわからないものの、こうなっているのかと思う事がある。

お能の小鼓を習って、こんなふうにお能を内側から眺めるような感覚があった。仕組みやどうなっているか全てはわからないものの、建物の梁や柱などを内側からぐるっと眺めるようなそんな感覚がある。

他の担当楽器をならっても、謡や仕舞を習ってもやっぱり同じなのではないかと思う。

けれど、心となるとなかなか難しい。お能を作っていた時代の人がどんな気分だったのか、どんな心でいたのかはわからない。

共感をもって演奏できるかというと、それもなかなかずっとは難しい。一瞬や小さいパートでそれがやってくることはあるけれど、全体にずっと共感を持てるかといえばできないなあと思う。


共感といえば。お能の登場人物同士が共感というか共鳴し合う場面が結構ある。男性の場合は男性同士、戦で殺すものと殺されるものの間で起こる事が多いように思える。これはどっちも実感がある、いつどっちの立場になったかわからないという場面が描かれているからなのだろう。

男女で共感や共鳴が起こることはあまりない。今思い出そうとしても、微妙だ。女性は女性同士で同化することもあり、また好きだった男性と同化して行くというのもあるけれど、それはどちらかというと自分の中の相手との同化のように見える。

男女で共感するってことはお話の中ではないかもしれないなあと思う。

でも、お話の作りとしては、それを作っている人、語っている人はその世界に共感しているんだなあ。と思う。

習い始めていつの間にか二十年ぐらいたっているけれど、そんなに深くわかっているわけでもなく、知らないことが多いので、これからも「あ、そうなってるのか。」と思う事が多いだろう。仕組みもそうだけれど、いつか、「あ、そそうか。」と納得できる瞬間が来るといいなあと思っている。

それには技術が必要なんだけれども。ふー。

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するすみ
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