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なぜVTuberを萌えや好きではなく「推し」と呼ぶのか

「推し」という単語に馴染めない。

世は推し活戦国時代。果て無き消費によって経済活動を回せるオタクは、推し活という流行語によってサムネの通り"免罪符"を得た。
多様性を重んじる世論も乗じて「”何かに没頭している人”を忌避してはいけない、むしろそういうのイイんじゃない?」という風潮が2025年現在では確立したと感じる。10年前は奇異の目で見られていたのに、すごい変化だ。

自分が最近観測しているVTuber業界においても、推しという言葉は一般化されていた。どんなに萌えを具現化したようなVに対しても、ファンは”推し”と呼びかける。
おいおい、萌えは萌えだろうが。と言いたいところだがとっくに時代は変わっていた。受け入れなければならない。
「推しという単語には応援という意味が内包されているのでは?」と、1年前のにわかな自分は定義していたが、今では違う。必ずしも内包しているわけではないと理解している。

そもそも”推し”という言葉が広範囲に渡っている現状

現在は”推し”という言葉の定義が拡張されまくっている、という状況は認識しておかなければならない。
好き=推し、カワイイ=推し、仲良くしたい=推し、応援したい=推し、その他もろもろ。

それに引きずられて”推し活”という言葉も同様に、幅広い意味で使われている。流行語としても市民権を得ている。
といって何でもござれというわけでもないようだ。推し活についてはこちらの6タイプに分けられる、というのが今のところ個人的に納得できる解釈。

例えば自分なら「紐帯型」に該当する。

【紐帯型】推しをエネルギーに生きたいタイプ
特徴:SNSをフル稼働させて、常に推しの情報収集は欠かさない。「オタク」の自覚があり、推しは生きがいであり、崇拝の対象。

好きな対象は崇拝しがち。こちらのギブに対してテイク=見返りを求めないほど聖人ではないが、見返りの内容は認知してもらうことではなく作品や活動そのもので返してもらえればそれでいい。「こちらは勝手に好きになって勝手に応援してるだけなので、そちらも思うままにやってほしい」というスタンス。

このスタンスは人によって千差万別ではあるが、上記の6タイプが混在し、かつその比重も人によって違うものとして見れば大まかな分類は可能だ。
(例えば同じ紐帯型の中でも、共有型も含んでて皆で楽しみたい人もいれば、憧憬型の要素が強くて遠くで見ているだけでいい人もいる)

ただひとつ共通する点として「何かしらの行動を起こして」推していることは間違いなさそうだ。
という定義がなされ、雑誌やメディアに好意的に取り沙汰されている。

社会的に免罪符を与えられたからといって、誰もが理解している行為というわけではない

しかし自分はといえば、ちょうど推し活が流行りはじめた頃にオタク的な活動から離れていたこともあり、冒頭の通り推しという単語にまだ馴染めない。
いま好きなVTuberに対しても○○萌えとか○○信者(これがもう死語だが)と言ったほうが意味としては合ってる。
とはいえ他人に伝わらないのでやむなく推しと言わざるをえない。最近ようやくこの欺瞞にも慣れてきたところだ。
お前にも免罪符あげるよ、と言われても素直に受け取れない。
自分ただのキモオタなんで認めてもらわなくていいです。というスタンスは今でも変わらず、こちらの記事には激しく同意と言わざるをえない。

俺は推しに金銭を払うことが気持ちいいからスパチャをしている。が、普通の人はそもそもスパチャを投げない。わかるね?
資本主義社会においてオタクが経済を回してくれる歯車の一部であると周知がなされ、かつ若い世代で既に推し活が広まっている以上、今後迫害されるような未来はなさそうだが。
推し活は楽しい。今のところ止める理由もない。
それはそれとして誰もが理解してくれるような行為でもない、というバランス感覚は持っておきたいと思う今日この頃である。

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