神様

2025年2月29日、私は神様に会いにゆきました。空からすべり落ちてきた水の塊がビニール傘を激しく叩くので、私は少し不安な気持ちになって、手元をつよく握って祈りました。

「神様いますように」

駅前のカフェ・ベローチェに神様はいました。窓際のカウンターに座っているものですから、反対側の信号待ちの私からよく見えました。ガラスの向こうの神様は、大きな口でホットドッグに齧り付き、口元のマスタードを紙ナプキンで拭っています。
ショーケースのジュエリー、海底の珊瑚礁、おおいぬ座のシリウス、とにかく彼自身と彼が発する光に近いものを浮かべては一歩前進し、信号がまた赤になってしまう前に横断歩道を渡るべく急ぎました。思考や鼓動とは裏腹に、踏み出す脚が鉛のように鈍く、私は後ろに並んでいた人たちに次々に抜かされてしまいました。神様が、私に気付いて控えめに手を振ります。
店内は雨宿りの客で混雑していました。アイスティーを持って彼に近づくと、彼は自分の隣の椅子を引きました。ここへ座れということでしょう、神様の命令は絶対です。

「こうすけ君、久しぶり。待たせてごめんね」
「久しぶりだね。いやあ全然待ってないよ」

神様は両手のパン屑を払いながら優しい嘘をつきます。あまりにも昔と変わらない笑顔だったので、なんだかおかしくなって、私も笑ってしまいました。

神様とは、習志野第八中学校で3年間同じクラスでした。卒業後、私たちは別々の高校、大学へ進み、再会するのは中学の卒業式振りです。前野こうすけ君は、大学卒業後、商社へ就職して4年目に結婚し、翌年には長女の夏樹ちゃんが産まれたそうです。

「夏樹ちゃん、元気? もう中学生だっけ」
「ああ」

「奥さんはまだベーカリー勤務?パン屋ってすごく早起きでしんどいって聞くわよね。子どもが一人とはいえ、大変なんじゃない?」
「ああ」

「あら、今日は指輪してないのね」
「ああ」

神様はけっこう無口でした。昔はお喋りであまり落ち着きがなくて、教師にも食ってかかるような強気な人でした。神様も人と同じように大人になってしまうのでしょうか。

「いま教師やってるんだって?習志野の中学だって、噂で聞いたんだが」
「ええ、そうなの。 しかも今年から母校へ異動なのよ。 まさかまた八中に通うことになるなんてね」

神様はまた、黙ってしまいました。私の出方をうかがっている様に見えます。広めの額に少し汗をかいて、なんだか緊張しているようでした。押し黙る神様と、屑の私の間にアイスティーがあります。少しも飲みたくならないので手は付けず、どんどん氷が溶けてグラスが濡れていくのを眺めていました。神様、神様、神様。なにか言って、神様。

「頼む。  忘れてくれないか」
悲しんでいるような、苛立っているような声色でした。

神様は「忘れてくれないか」と確かに言いました。とても長い沈黙でした。神様の命令は絶対です。私は忘れることにしました。

この男、前野こうすけは、3年間虐待した同級生を前にして、謝罪の言葉ではなく、命令を下しました。私が教師として娘を受け持ち、私怨から娘に危害を加える可能性を認めた上で、私に「忘れろ」と命令します。これが、このひとが私の神様たる所以です。

私は、地元から逃げるように上京して以来ずっと調べ続けてきた彼の情報の記録を差し出しました。ファイルには、彼の個人情報、経歴、人間関係、日常生活の様子、不倫の様子、不倫相手の個人情報、家族の個人情報、私におこなった虐めの詳細が記載されています。私を屑と呼び、殴りつけ、神様と呼べと、初めて命令した日のことも書いてあります。あの日から3年間、私はさまざまな命令を受け、従いました。神様の言うことは絶対でした。埃っぽい体育準備室のマットのにおいが、ファイルから漂ってきそうでした。男はあの日から神様、私はあの日から屑で、いまは、教師です。

「でも忘れちゃったら、こうすけ君もう神様じゃないね」

男の肩が上下し、ファイルの上で合わせた両手がかすかに震えていました。まばゆく光っていたはずの彼が、顔色の悪い中年男性に見えます。いま私には、この男を殺害するための用意があります。カウンターテーブルの下で、刃先が男の太ももに到着する頃、男はかすれた声で、祈るように言いました。

「神様………………」