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【小説】宝物②

松下洸平さんの『つよがり』という曲から着想を得たお話です。①からのつづき。

週末、会う約束をして僕は車で彼女を迎えに行った。
都心を少し離れてドライブをする。夏の強い日射しが、木々の濃い緑や川の青を照らして眩しく光る。世界がこんなに色鮮やかだったことを、僕は初めて知った。
彼女が行ってみたかったというお店で食べたカレーは僕にはとても辛かったが、その刺激は新鮮で、生きている実感がした。彼女といるだけで、その笑顔を見ながら一緒に食べるだけで、何もかもが満たされる。僕の存在が、濃く、はっきりとするのを感じる。もう消えてしまいそうな不安に襲われることはない。

帰り道、音楽を流しながら、夕焼けに染まる中を走った。穏やかで平和な空気がとても心地よい。
「湊くんはいろんな音楽聴くんだね」
「もう友達にすすめられるまま、何でも聴いてる感じ。あっ、でもこの曲は自分でピンときてダウンロードしたんだよな…」
信号待ちの隙にオーディオを操作し、ある曲を流した。たまたまラジオで聴いて、珍しく僕の心に刺さったのだ。感情豊かに歌い上げる男性シンガーの曲だった。
「リリースは10年くらい前なのかなあ?僕は最近知ったんだけど」
印象的な美しいイントロが流れる。
隣の彼女の様子が明らかに変わるのがわかった。
が、僕は気づかないふりをして話し続けた。
「この声がいいよな~男からしてもこれはセクシーだよ、憧れるわ~」
彼女は黙っていた。何かを噛み締めるように、じっと。でも、何を思っているのかは聞けない、聞いたら、この幸せが終わってしまう気がした。
「コーヒーでも飲もっか?コンビニ寄る?」
僕はそう声をかけたが、彼女は、
「今日は、もう帰ろ。運転疲れたでしょ、ありがとう」と言った。

彼女を家に送り、一人帰宅した。少しだけ期待して、きっちり片付けておいた部屋ががらんとして虚しい。
彼女は何を思っていたのだろう?いや、考えすぎてはいけない、僕は幸せだ、それで良い。言い聞かせて無理やり寝ようとするが、眠れそうにない。

ようやくうとうとと眠りかけた頃、着信音が鳴って飛び起きた。彼女からだ。時計は深夜2時半をまわっている。
「ごめんね、こんな時間に。寝てたよね?」
「大丈夫だよ、どうしたの、何かあった?」
「…今から、もう一回会えないかな」
僕は車を飛ばして彼女の家に向かった。

出てきた彼女は助手席に乗り込み、そのまま運転席の僕に近付いて、優しくくちづけした。そして、小さくため息をついた。
「……さっき帰る前に、すればよかったね、キス。
…って、そういうことじゃないか…へへへっ…」
いつもの可愛い笑顔が見たくてそう言ってみたが、彼女は笑ってくれなかった。代わりにこう切り出した。

「あのね…長く付き合ってた人がいて」
僕はドキッとする。
「大学出てからずっと遠距離でね。転勤族で全国転々としてて。忙しい人だから、なかなか…行き来も…連絡も…自然となくなって…」
彼女を覆っていた悲しみが、はっきりと見えた気がした。
「あの曲、彼も好きな曲だったの。よく、一緒に聴いたんだ。」
帰り道で僕が聴かせた、あの曲。
「音楽ってすごいね、もう一気に色々思い出しちゃって」
彼女がまた遠くなるのを感じる。すぐ隣にいるのに。やっと近付けたのに。

「一人でラーメン食べてる私を、見つけてくれたことがあったでしょう?あれが、なんかすごく嬉しかったの。私本当は一人でいるのがずっと寂しくて…だから本当に、救われたんだよ。
ただ隣にいて、目を見て一緒に笑えるって、すごく特別で幸せなことなんだなって、湊くんと一緒に過ごして心からそう思った。この人と一緒にいたら絶対、ずっと幸せだろうなぁって…」
彼女は泣いていた。僕なら彼女を悲しませたりしないのに。ずっと一緒に、そばにいて、あの笑顔を守るのに。
「ごめんね、私はずるいから」
僕の向こうにいつも彼を見ていたのだと、だから近付いても近付いても遠かったのだと思った。彼女を覆う悲しみを破ることは、僕にはできなかった。
「私、来週から夏休みとってて。しばらく実家に帰るね。毎日暑いけど、ちゃんとごはん食べるんだよ。」
彼女は笑顔をつくってそう言うと、車を降りて歩き出した。
結局僕は何も言えなかった。追いかけて、抱きしめて、引きとめたかったができなかった。
なんて僕はつよがりなんだろう。

車を走らせるが、どこへ向かえば良いのかわからない。あまりの喪失感に泣くこともできず、苦しくて息ができない。
公園の駐車場に車を停めて、気分を変えようとラジオをつけた。夜は明け始め、おはようございます、とMCの明るい声が聞こえてくる。僕だけがまだ夜の中に一人取り残されているようだった。

そのとき、あの曲が流れてきた。僕の好きな、彼女の彼の好きな、あの曲だ。…こんな展開あるかよ…急に涙が溢れて止まらなくなる。しかもよく聴いたらこれ、今の僕にぴったりの曲じゃないか……
寄り添うような歌声が僕を包み、ますます涙が出てくる。自分の感情のままに泣くなんて、記憶にないくらい久しぶりのことだった。泣いて、泣いて、色々なものが流れていく。僕はもっと、恐れず自分の感情に素直に正直になるべきだったのかもしれない、と思った。少しずつ、優しく背中を押されるように、心が前を向き始める。音楽を聴いて泣いたのなんて初めてだった。あぁ音楽の力ってすごいんだな…

僕は車を降りて外に出た。見上げた空に光る朝日が眩しい。この空を、彼女も見ているだろうか。なんだか心強い気持ちになる。
彼女は、自分で、自分の大切なものに気付いたんだ。きっと、ちゃんと、幸せになれる。これで良かったのだ。彼女の心の真ん中にある宝物みたいな大切なものを、僕が上書きして消してしまわずに済んだのだから。

よし、朝ごはんを食べよう、と思った。僕の宝物は、日常にこんなにもたくさん散りばめられていたのだ。そのことを彼女が教えてくれた。僕は僕の生活を、生きているということを、目の前のひとつひとつを、ちゃんと噛み締めて、感じて、大切にしよう。そうすれば、幸せが消えてしまうことはない。今度は僕が、誰かの幸せを色鮮やかにできるような、そんな存在になれるように。
深く吸い込んだ新鮮な空気が体中を巡るのを感じながら、僕はアクセルを踏んだ。

季節は変わり、彼女が地方の支社に異動したと聞いた。
その街で、彼女が悲しみを纏わず生きる姿を想像して僕は空を見上げる。
さて、スーパーに寄って帰ろう。最近の僕の趣味は料理だ。友人達を家に呼んで振る舞うこともある。なかなか好評だ。今日の弁当の卵焼きも我ながら上出来だった。そのことに、今の僕は、はっきりと幸せを感じる。
信号が青に変わる。人々が歩き出し、色とりどりの生活が交わっていく。ふいに吹いてきた秋の風を感じながら、僕もその交わりの中へと一歩を踏み出した。

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