興味の幅を広げる
先日、長男の習い事の先生に、新たに最近好きになったものについて話をした時の事。
「興味の幅が広がったんですね。」
と返された。ああ、なるほど。興味の幅が広がるってなんか、素敵な表現の仕方だなあと思った。
私の昔から好きなものは変わらない。例えば好きな動物はずっとキリンで、好きな色はずっと薄紫で。でも、中学に入って新しい楽器を好きになったり、高校に入ってマネージャーの仕事を知ったり、大学に入って海外旅行にハマったり、そういえばしたんだっけ。
でもそれは全て、実は「自分の興味が広がった」からこその経験だったんだと、ふと気付かされた。それらの経験から得られたものが何かと言われたら上手く言葉にできないけど、知らず知らずのうちに、自分の糧になっているものも少なくないのかも。
興味のあるものを並行して続けるには、20代の時も、今も、基本的に時間が足りない。例えば昔はサーフィンに熱を入れるからという理由で少し楽器の練習を減らしもした。そして今はその両方だってしていない。育休なんだから、子どもが寝ている間にやろうと思えばできた。嫌いになったわけじゃないんだから。どちらを取っても有意義な時間になったはずだった。他にも、元々好きな読書だって。時間はたんまりあった。でも結局選択しなかった。
なぜか。
それは単純に、私が新しく別のものに時間を費やしたくなったから。
遡ること去年の3月。Netflixに加入した旦那。それを聞き、産休に入ったら私も絶対に「愛の不時着」観てやろうと考えていた。チョイスの訳は、前々からよく名前を聞いていたから。そして4月。「愛の不時着」から手をつけ始めたのが良かったのか、悪かったのか。
一言で言うならば「愛の不時着」は私を韓ドラ沼にどっぷりとはめた。
結論から言うと、その沼から未だ抜け出せないでいる。読書の方がテレビよりもいい。簡単なものでも勉強の方がテレビよりいい。テレビ=無益 なイメージを幼少期から培ってきた私には、ドラマに時間を費やすことに罪悪感を抱く。自分自身に。
ドラマを観る時間があるならば、本の一つでも読めたのではないか。ご飯の作り置き一つ出来たのではないか。睡眠時間を稼げたのではないか。そんな思考回路が無意識のうちに働く。
けれど、前述の息子の先生の言葉が私をハッとさせた。ああ、韓ドラの沼にはまることだって、良く言えば、「私の興味の幅が広がった」ということなんだな、と。
先生の言葉は、自分の心が潤うのであれば、その手段が映像(ドラマ)でも、「ただの悪」とは捉えなくてもよいのではないかと、ふと思い直すきっかけとなった。
例えば、一つのドラマのサントラを気に入って、その歌い手を好きになれば、また興味の幅が広がるということだし、時代物を観て日本以外の歴史に興味を持ち始める事だってあるかもしれない。そんなふうに、些細なことでも自分で価値を見出せば、
「自分自身が興味を持ち始めたもの」
が何であれ、自分の心に まずは快く受け入れてあげてもよいのではないかと思った、という話。それができれば、例え我が子が理解し難いことに興味を持ち始めても、広い心で受け止めてあげられるのかな。
ここからは余談。というか、もしかしたら私が一番話したかったことなのかも(笑)
それは、最近観た「恋慕」が久しぶりに自分にヒットした、ということ。最後まで、物語の行く末がどうなるのか分からない作品が好みな人にはウケるのではないかと思う。
「恋慕」の「恋」という字が、私の先入観にラブストーリーを彷彿させて、しばらく観る気は起こらなかった。しかし実際観てみると、恋愛模様だけでは語れない色々が、ストーリーに深みを出すというか何というか。
そして観終えた今、私のお気に入り、「愛の不時着」「ヴィンツェンツォ」「トッケビ」「賢い医師生活」に「恋慕」が並んだとまで言い切れる。(あくまで私の中の順位です。)
もちろん他にも色々観てはいる。しかしながら、この5つとその他は「雲泥の差」とは言わないけれど、造語で表すなら「山泥の差」くらいはあるかも。興味のある方は、是非一度。