意志は自由であるか
『増野鼓雪の信仰と思想/西山輝夫』の一節から
まず、西山氏の説明が
心が澄むというのは、自分の努力、自分の意志で可能であるか。この意志の自由について、鼓雪は否定的であった。
とあります。
そして、鼓雪の文章に入っていきます。
意志は自由であるか
宗教が、強い救済力を示しているうちは、他力であり、それが薄れてくると、自力に傾くというのが、鼓雪の見解であったそうです。
自力宗か他力宗か。
意志の自由をめぐる論議は昔からのテーマであったようです。
これを主張しているのが大正時代、
今の時代はますます自力宗の傾向が強いでしょう。
霊的人格者
さらに鼓雪の見解は、
こうした自由意志に重きを置く思想は、人生において因縁がどう顕れてくるかという必然を知らない人々が増えていく以上、やむを得ない。
「霊的生活に入った者」とはどういう人のことでしょうか。
現在の本教では耳にしないワードですね。
鼓雪自身、29歳で本部員登用されていますが、それ以前に、そういう生活に入った時期を認めています。
教義がじゅうぶんに整備されていない当時の時代の自由な空気もありますが、鼓雪の信仰スタイルは、「教祖の教えを教派的に造りあげ」るのではなく、自分個人の心を、神に、教祖に近づけてゆくという目的にありました。
他にはたらきかけてゆくというような現在の天理教的なことよりも、世にある様々な宗教が目指すような、己の心を修業し、神に接する境地に到ることや、いかにして神に相まみえるかということに重きがあったように思います。
ヒンドゥ教のガンジーは
「わたしには肉と霊の双方を求めて生活はできなかった」と禁欲主義を取ります。
さまざまな宗教が、神秘の世界にたどり着くまでには、進めば進むほど荒野をひとりゆくような孤独があり、鼓雪自身も、驚喜も、自殺の危機も、狂気の寸前も通ったのであろう。
最後までありがとうございました。
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