幼少期の信仰③


はじめに

幼少期の信仰について。
裕福な家庭で満たされていて、なぜ尼になりたいという信仰を持つほどになったか。

こちらの続き





教祖の御性格

生来身体が余り丈夫でない処から、浄士に憧れ、かねて尼になりたいと思われていた頃の事とて、・・・

P.13

『稿本天理教教祖伝』では、「尼になりたい」と熱願されたことについて扱われているのはここ一文ぐらいで細かく書かれていませんが、
この背景について『私の教祖/中山慶一』でわかりやすく賢察されていますので、そちらを紹介させていただきたいと思います。

以下、「御信仰」(P.100〜113)より要約

教祖は

「私は若い頃はどちらかといえば極く陰気な気質やった。それが七十の年になってから立って踊るようになりました」と後年仰られている。

当時、教祖の周辺にあった一般百姓たちの生活状態を以上のように眺めてくると、これこそ教祖幼少時代のあの物思わし気な態度の原因ではなかろうかと強く偲ばれてくるものがある。

P.108

このように見ると、教祖が幼少時代から非常に慈悲深く、いつも近所の子どもたちにお菓子や手芸品を与えて遊んでやっていたことも、単なる一時の思いつきや、その場限りの慈悲だけではない深い根ざしがあったことが悟れてくる。


当時の教祖はまだ幼少であったから、人生問題や社会問題について深い理論的追究や理解は持っていなかったということはうなずける。しかし、きわめて純粋で素直な、しかも鋭敏で慈愛に富んだ心であった。当時の世相は暗く、無理と矛盾にみちていたし、人々の生活の姿はみじめだったから、そのまま見過ごせないものとして映ったに違いない。なんとかして、この世の中をもっと楽しい明るいものにする工夫はないものかとの思いは、教祖の豊かな慈愛の心と鋭い直感の強烈さで常にその脳裏から離れないものだったのではないだろうか。しかし、いかに利発な教祖とはいえ、まだ幼少の身にはどうしようもない、全く心に余る課題であったに違いない。しかし一度心に映った課題はこれを解決せずにはおられないのが教祖の性格であった。人に対する同情にしても決してこれを単なる同情に終わるのではなかった。直ちに反射的に慈悲を注ぎ、救いの手を差しのべられる行動として実行せずにはいれなかったのが、長い生涯を通して拝する教祖の御性格であった。

日々、心にある課題も幼少の身には、簡単には解決できない大問題であった。しかし幼いながらも身の周りのこととして、これを解決せずにはいられなかった。この心から、お菓子一つも貰えない貧しい子どもにお菓子を与え、足手まといになる子どもに煩わされてじゅうぶん仕事の出来ない親たちへのせめてもの手助けにと、終日近所の子どもたちを遊ばせてやったものと拝察される。 そしてこれによって、直接教祖の温かさに触れた子どもたちは喜んだ。そして親たちの心までが感謝の喜びに明るくほころんでいった。その姿を見ては、我が事のように喜んでいたのである。

これは確かに冷たく閉ざされた人の心に投じられた明るい社会浄化の一石であった。

しかし、教祖の心は決してこれだけで満足できるものではなく、さらに根本的な解決を求めて悩み続けた。




母親を越えるほどの信仰へ

そうした時、はからずも母に手を引かれてお寺参りをした。そこで住職の法話を聞く機会があった。そしてそこに日々抱えている大きな課題に解決の光を発見されたものと拝察する。

母はこうした深い教祖の胸中を知る由もなかった。普通ならたちまち退屈するようなお説教を、いとも熱心に聞く我が子を見て、この子はほんとにめずしい変わった子だと不思議に思った。またその信心深さを喜んだ。しかし、教祖の心中を上述の如く拝察すれば、この熱心さには何の不思議もない。むしろ母の信仰よりも教祖の信仰の方がはるかに深いものがあったのではないだろうか。

世間一般の仏信心は、後世の安寧を願う。それに比べて教祖の信仰は、我が身に求めるものは一つもない。天性の愛情と慈悲の心に、世の人々の生活のみじめさが映っている。それをなんとかしてなくす道はないかという大きな願いがある。したがってそれは極地に至るべき強さと深さがあった。

終始熱心にお説教に耳を傾けられたが、それは聞くことだけに満足されていたのではない。これに自ら抱えている大きな課題の解決を求めていたのであろう。 したがって家庭の仏間で、日夜母の後から小さな手を合わせて念仏を唱える声にも、単なる子どもの見まねではない強い力があったことと拝察する。

そしてやがて浄土和讃を暗記されることともなり、遂に十二、三歳の頃には尼僧となって一生を御仏に捧げようと熱願をさえ起こされるに至ったのであろうと思う。

教祖の信仰は、一度その信仰生活が始められるや、凡庸のうかがい知ることの出来ない深さと強さをもって進められ、すでに母親の信仰を越えたものとなっていた。このことは最初は信心する我が子を喜んでいた母親が、その信心がいよいよ進んで尼僧志願したときに、意外さにびっくりして、これを思い止まらせようとしている事実によって察することができる。

また教祖の信仰生活は、浄土宗の教えによって養われていったように見えるが、その実は教祖自ら人生の矛盾と暗さを感得されたことから出発されたものである。そしてこれを解決しようとする努力によって深められていったものであった。そしてやがては一切の既成の教えを越えて独自の道において、この課題の解決を与えるときが来るのである。


(続)



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