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本席としての理

本席のひながた

現在のお道は三年千日の歩みの中ですが、以前の記事、三年千日のおさしづ中でこういう一節があります。

ひながたの道が出してある。
(お前たちの通りよいように教祖のひながたの道を示してある。)

ひながたそばにある。
(そして更には、そのひながたを素直にたどった本席の手本雛形の道がお前たちの身近にある。)

めん/\もたった三日の辛抱すればひながたの道が。
(だから、お前たちも、いかに苦労の道中があろうとも最後まで通りきったならば、あとあとの手本になる道をつくることができるのである。)

以前々々は、我が/\のようにして通りて来たのや。
(本席にしても、昔はみんなと一緒に、「おまえが、おれが」と言った仲で通ってきたのである。
それが本席となったというについて、その理を、よく思案してくれなければならない。)


このお言葉を聞いた、
この時代の方々は、まさにその本席様からのおさしづ(※神言)なので、その手本ひながたを、まさにそばに見ることができますが、今の僕たちは史実からしか触れることができません。

ですので、今回も、本席のひながたの、その一部をピックアップしてみたいと思います。

本席・飯降伊蔵氏は、大工として、細々と働きながら、おやしきの御用につとめられました。
そして三年千日は、ひながたを辿らせていただく旬であります。

僕自身も働きながら、自分にできる限り、ひながたを辿らせていただこうという中に、この伊蔵氏の「大工のひながた」がひとつ大きな参考になると思い、勉強させていただきたく取り上げさせていただきます。



大晦日、丸九年

以前のこの記事

つとめ場所のふしんを終えると、年の暮れになり、支払いの猶予も通り、ひと段落しました。

そして、

この年から三年ほど、伊蔵はおやしきに常詰めしていたとも伝えられる。同時にまた、これから九年間は、それでなくとも忙しい大晦日には、自分の家はさておき、決まっておやしきの掃除をし祭壇を整え、迎春準備をすませたうえで、帰宅、明けて正月には何より先にお参りしたという。中山家の人々をどれほど安心させたことか、計り知れない。

 中山正善(二代真柱)はその著書『ひとことはなし』で、「この九年間の勤、只一人でのつとめ、一筋心に親神様にお仕へされたそのうちに後年本席としての理をつまれえたものと悟られます」と評されている。
『天の定規』P.19

信者がたくさん集まっているからとか、そういう目に見える人の数や、形のうえからの相対評価で捉えている信仰では、一人で、九年間もつとめられません。

「おさとの命のないところを、御教祖にをたすけてもらったのや」

という、ただ御恩報じの思いがあるだけで、他の人がどう言おうが、ただ大恩人である生き神様が、極貧の中を生活されているから、少しでも御用させていただこうという、恩を忘れず、はかりごともない、ただ正直な姿です。


本席という尊い理を頂かれたのは、この九年間のつとめによるというのは、おさしづがあります。

(前略)それより又一つ/\あちらからこちらから、だん/\成って来る間、丸九年という/\。年々大晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来る者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\随いてきてくれたと喜んだ日ある。これ放って置かるか、放って置けるか。それより万事委せると言うたる。これが分らん。(後略)
明治34年5.25


ここまでしてくれたのを、「これを放って置けるか」と、伊蔵氏が尽くしたものをしっかりと受け取って下さり、その絶対の信頼から「それより万事任せる」となる。

これ放って置けるか」となるまで人間側からやる、という行為。

名東二代、柏原源次郎氏も
「神様が放って置けないぐらいの徳積みをせよ」と仰っていたのを思い出します。


余裕ないなかからのつとめ

そのおやしきに勤め抜いた9年の間も、経済的に余裕はなかったそうです。

一方伊蔵は、大工という言わば日給仕事をしていた身であり、それが入信以来稼ぎ仕事を打ち捨てて信仰精進をしているのであるから、経済的には何等お屋敷の力になる程の余裕もなく、寧ろ山中忠七が寄進された五両の中の幾分かを、お与えとして頂いていた程であった。然し何をおいても、お屋敷大切と勤め切る心止み難く、
『私の教祖/中山慶一』P.326

おやしきに通い、勤め切った、ということです。


無欲で正直で、世間一般からすれば、バカ正直と揶揄されるでしょうが、こうして勤め切ってきたという「本席の手本雛形」が、信仰ある者からすれば、非効率とか非合理とかバカを見るとかを通りこした尊さを感じずにはいれないのではないでしょうか。


顧みれば文久年間の初めから、教祖の不思議な御守護を頂いて、
お屋敷に慕い寄った人の数は無数と言ってよい。而もそれ等の人々の中から「扇の伺い」や「肥の授け」を頂いた人々が五、六十人もあったと伝えられている。
『私の教祖』P.327

そんな中にあって、神様からすれば「言わん言えんの理」ということもあったかもしれません。

おやからこうしてくれと、無理に強制して言いたくはない中を、信者の中から、自ら志願して、つとめ場所のふしんに、一人での九年間のつとめをした伊蔵氏の姿に

「その日の心、一日の日誰も出て来る者も無かった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\随いてきてくれたと喜んだ日ある。

と神様も、なんと喜ばれたことだったでしょうか。

前回記事にもありましたが、つとめ場所のふしんを一人で終えたときには、入信僅か半年ながら、
「お前が帰ったら、あとはどうする事も出来ん」

と、秀司氏から絶大な信頼を寄せた言葉をかけられています。

そしてその後九年間、32歳からおよそ41,2歳ごろまでのことと思いますが、風の日も雨の日も、ほとんど一日も欠かすことなく、おやしきへ教祖の様子を確認しに来てくれるという姿は、秀司氏はもちろん、教祖、親神様からしても、何とも頼もしく、信頼のおけることだったでしょう。

ある寒い晩には、火を焚いてもらって

「伊蔵さんならこそ、今夜のような寒い晩にもおいでてお世話くださる」

とお喜びになっています。

どんな日でも、他の人が寄り付かなくなっていて一人でも、必ず御用に来てくれるという姿。
絶対に、この人物は、来てくれる、裏切らない、信用が置ける。
「変わらぬが誠」という一日、一日、日頃の行いというのが、変わらない一貫した姿であり、正直でまっすぐな姿です。

入信前からも、日頃の行いから、村で正直者と評され、信頼されていたそのまっすぐさが、おやしきのつとめにおいても発揮されている伊蔵氏の徳分であります。

「誠の道」「ひながたそばにある」
と、我々後に続く信仰者が手本にさせていただくべき姿であります。



最後に

伊蔵氏の入信前から、五,六十人の信者はいたということですから、神様の期待のかかった人物はそれなりの人数いたということです。
しかし、「一日の日誰も出て来る者も無かった。頼りになる者無かった。」という中、真実を尽くしたのが伊蔵氏だったということであります。

親神様のご守護は、降ってくる雨のように平等であると聞かせていただきます。
同じように、最初に「扇」や「肥」をもらっていたご期待がかかっていた人々がおられました。
意志は自由であるか」という記事も書きましたが、ご期待がかかっている人々がいた中で、それの受け取り方や、あとはその個人の「神様へ報いよう」という「意志」がどれだけあるかによって、神様の方から受け取れるものも変わってくるのではないのかということが、こういった史実から考えさせられました。

本席様のように、神様へのご恩忘れず、変わらぬ誠の姿で通らせていただけるよう心掛けていきたいと思います。


最後までありがとうございました。


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