"スーパーシティ"は日本を変えるか
スーパーシティ法案のスピード可決から1年がたった。
当時は一部で監視社会を危惧するような批判もあったんだけど、いまとなっては忘れられているようで、人々の健忘症はますますひどくなっているのではないかと少し心配にもなる。
そのスーパーシティについて、国家戦略特別区域の指定に関する国の公募が4月16日に締め切られたんだけど、全国31自治体から応募があったとのこと。
スーパーシティってのは、要すればスマートシティがデジタル情報を活用してロジスティクスとかモビリティとかを効率化していくのに対して、その分野ごとに分かれた情報基盤を一元化して都市全体に広げようって考え方に基づいた、日本独自のスマートシティの進化版といえる。
だから、個人のいろんな情報も収集されていくことになるし、もっというとそういう情報が数値化されたうえで市場調査に出回ったとすれば、新たな市場の開拓につながったりもする。それは見方によっては結局のところ金持ちが金儲けする道具になったりすることになる。
つまり、いいとこばかりではない。というか、現代的な格差とか権利制限を助長することになりかねない。批判もわかる。
一方では、昨今のパンデミックでスマートシティが加速しているなんていうレポートも出ている("Smart City Solutions for a Riskier World")。人が外出しづらい社会でも情報は流通させなければならなくて、そのためにはスマートシティ化の必要があった、ということだ。
スマートシティってのも実は2010年頃から世界各地で実証実験が進められているそうなんだけど、わけてもスマートシティの成功事例として知られるシンガポールやヘルシンキ、アムステルダムとかは、実は環境先進都市としても評価が高い。
持続可能都市ともいわれたりするんだけど、そういう環境に優しい都市づくりがスマートな都市づくりに関係が深いのだとすれば、日本版スマートシティも、日本を再構築させるかもしれない?
そういえば今日6月5日は世界環境の日なんだそう。そんなわけで、このスマートな都市づくりのもたらす環境について考えた。
スマートシティとは
スマートシティってさんざんメディアでも流れるけど、いったい何のことを指すのか。そもそも、たとえばいまの東京はスマートシティなのか。なにがスマートなのかってよくわからない。
内閣府のホームページにはこう書かれている。
要すれば、デジタル情報を駆使して都市社会インフラをハイスペックにしましょうということ。
身近な例をあげれば、東京でも最近スマホアプリを活用したレンタサイクルが増えているけど、これもデジタル情報を用いた交通技術の高度化といえるから、スマートシティ化のひとつだ。
でも、東京のスマートシティに関する評価はまだまだ低い。
2020年に国際経営開発研究所とかが共同で出したSmart City Index 2020っていう報告書によれば、109都市中の東京のスマートシティランキングは78番目だ。
近隣のアジア諸都市ではシンガポールが堂々の1位、台北が8位、それから香港(32位)、釜山(46位)、ソウル(47位)・・・と続いている。東京以外の国内都市でいっても大阪が東京に次いで79位と、なかなかふるわないのが現状だ。
ちなみに、スマートシティの説明に書いてあった「Society5.0」という用語についても、内閣府のホームページに書いてある。
サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させるってのは結構不気味な響きだ。
あんま関係ないけど、同じく内閣府が出している「ムーンショット目標」というのはすごい。
これは概要だけど、ホームページにあるムーンショット目標について詳しく読むと少しディープなSF世界に入っていける。いまのSociety5.0も、ゆくゆくはこういう目標につながっているのかもしれない。
新しい自然
それで、さっきも書いたけど、スマートシティと環境に優しい都市には少なからず符合がある。それが持続可能性につながるということもあると思うんだけど、これは環境の日に考えるテーマとして面白い。
とはいえ、スマートシティのエネルギー効率が高いのは既によく知られていることだ。
たとえばIoTを駆使して、物流のトラック台数を減らす試みが進められている。つまり、これまでは2地点の往復をしていたトラックの積載量や空き容量が管理できれば、より多くの荷物を2地点に限らず運搬することが可能になる。当然これまでよりもエネルギー消費が抑えられることになる。
こうした物流に限らず、公共交通や医療、電力消費においてもIoTやICTの技術が導入されてきている。
また、公園においてもスマート化が進んでいるらしい。といっても、今はまだデジタルサイネージっていうディスプレイとかの電子的な表示機器を使って情報を発信するメディアを設置するとかってことぐらいらしいけど。
でも最近では、自然環境のもつ機能を社会基盤にも導入する考え方に基づいたグリーンインフラの整備も進められている。
国土交通省ではグリーンインフラの社会実装を推進するため、ポータルサイトを設置して自治体への支援を始めている。
今年の3月には第1回グリーンインフラ大賞の国土交通大臣賞が、4部門に分けて発表されていた。
東京丸の内で通りすがりに見たことがある人もいると思うけど、丸の内の地元のエリアマネジメント組織と三菱地所が取り組む「丸の内ストリートパーク」が都市空間部門で受賞したそう。
これらの公園やグリーンインフラもスマート化される対象として見すえられているようで、国土交通省では公園、グリーンインフラ、スマートシティ、スマートローカルをテーマにした技術政策の懇談会も開催されている。
近い未来にはよりスマート化した公園や緑地といったものが都市に出現し、都市における新たな自然を形成するかもしれない。この場合、スマートシティの未来はスマート化した自然へと向かうことになる。
そうしてみると、都市は自然を切り開いて作られてきたのに、その都市を高度化させる先にはまた自然への回帰、それも自然2.0といえるよな新たな自然があるように思えてくる。そういう自然への回帰、あるいは都市的自然の創出は、エマ・マリスの言葉を借りれば「多自然ガーデニング」といえるだろうか。
スマートシティ化の先で、都市は高度経済成長期的なコンクリート砂漠のイメージよりも、多自然的な庭のイメージを先行させていくのかもしれない。
日本の再構築
むろん、スマートシティ、あるいはそれを全体化したスーパーシティが自然を再創造するのかは分からない。なんだけど、環境問題が良くも悪くも日常世界の下部構造として確立されている今日、このスーパーシティが新しい自然を創り出すというのは想像に難くない。
そしてそれは、日本の再構築につながるやもしれない。どういうことか。
『敗戦後論』の著者である加藤典洋は、この本で日本社会におきた「分裂」について扱っているんだけど、その前に書かれた『アメリカの影』において、加藤は戦後の日本社会に起きた分裂、あるいは「世界像の解体と流動」が敗戦とアメリカの占領統治によってはいないことを指摘している。
加藤は、その日本に起きた分裂の原因をむしろ高度経済成長期における「自然」の崩壊にみている。いいかえれば、日本人の「自己同一性の根」は「「国」にあるのでも、また「天子様」にあるのでもない」。それは「自然」においてあるということだ。
そうであれば、スーパーシティが創り出すだろう新しい自然は、日本人の自己同一性の根を再構築してくれないだろうか。
世界環境の日に、環境のことを思うことは、日本人にあってはそのルーツを思うことであってもいいんだろうと思う。