「初めての二胡」の思い出
東京で、二胡を始めとする中国の民族楽器や、中国音楽の合奏を教えている音楽教室「創樂社」の安西創(あんざいはじめ)と申します。
「二胡」という楽器を、私自身は子供時代にレコードやテレビで少し認識していたけれども、一般的には2000年代に女子十二楽坊のブームが到来するまで「胡弓」と呼ばれていて、全く違う楽器である日本の胡弓の呼び名と混用されていて、どこか社会的に輪郭がぼやけた存在だった事を薄ら覚えています。
それより遥か以前、80年代後期はまだ「二胡?なんですかそれ」と言う世の中。今と違って楽器は手に入らず、インターネットが出現する以前、調べごとは「詳しい人」や紙の出版物が頼りの時代。ともかく「楽器を手に入れたい!」と思った私は、藁をも掴む気持ちで「横浜中華街へ行ったら何か手がかりがあるのではないか?」と出かけました。そしてコケの一念岩をも通す。中華街の大通りにある「インポート西芳」という茶器や衣料品、玩具などのキッチュな雑貨を商うお店のショーウィンドウに二胡を見つけたのでした!忘れもしないお値段「6800円」也。今思い起こせば実用からは程遠い楽器でしたが、とても煌めいて見えていた事を覚えています。
その後、大学に入り中国語を専攻する事になった私の学校に「中国の音楽世界」を上梓したばかりの孫玄齢先生が客員で来ておられ、氏のご紹介で縁あって故坂田進一先生の門を叩いたのでした。
1990年7月10日、「一度教室へ訪ねていらっしゃい」との事で「例の」二胡をバンジョーのハードケースにを大切に収めて(二胡が安全に入る長さのハコはそれしかなかった!)、当時伝通院そばのマンションの一室にあった教室へ行きました。坂田先生は私が提げて来た楽器を一瞥して「これか……」と言葉少なに千斤や弦を巻き直して、どうにか弾けるようにしてくれて「楽器を持っているとは聞いたけど、酷くて使えない。でも、しばらくはこれで稽古するより仕方ないな」と苦笑されたのを覚えています。残念ながらその二胡は既に手元になく、写真も残っていませんが、心にいつまでも消えない大切な思い出の1ページです。亡き師の命日6月24日を前にふと原点を懐かしく思い出して書きました。
生徒さんの持ち込んだ楽器についてあれこれ言うのは賛否の別れるところだとは思いますが、私の場合本当に楽器としての体裁がギリギリ整っているだけの「お土産品」レベルの楽器だったので、振り返ると、極くもっともな反応をされたと思います。その後幾つも楽器を買い替えたり、たくさん触れる事で経験を積み、知っている事も当時に比べて増えた私ではありますが、そんな、右も左も分からないところが出発点でした。だから今、何も知らない方が臆する事なく中国音楽への扉を敲き、押し開く事をお手伝いしている事に心からの喜びを感じます。
ゼロから二胡、中国音楽に触れてみたい方の背中を押してあげられる存在でありたいと思っています。生徒さん随時募集中。ホームページからどうぞ気軽にお問い合わせください