十年越しの人生リセット
東日本大震災。私はあの瞬間を自宅で迎えました。その時はちょうどお箏の稽古中で、そろそろ師匠の家に行かねばと思い立ち上がったその時に揺れました。自分の身体がどうにかなったのかと勘違いして「倒れて頭を打たないようにとにかく座ろう」と思った事をよく覚えています。その後これを読まれている皆さんと同じく色々な事に直面し、そして様々な事を考えさせられました。
当時の私は地歌の修業を暮らしの中心に置いておりました。かと言って収入がなければ家賃が払えませんから、責任を持って自分にできる事でお金に変えられる事はなんでも引受けていました。ホテルやブライダルでアコーディオンを弾き、トランペットでチンドン屋の子方に出て、あちこちで二胡を教え、骨董屋の手伝いに出て、頼まれれば中国語の通訳や翻訳をしていました。
余震が続く中、布団にくるまってラジオでニュースを聞きながら、人が明日には死んでしまう、否、誰もが数時間後にはその人生が予期せぬ形で終わらせられてしまう可能性があるという事実、時間の有限性や不可逆性、そしてこの世の儚さに似た何かをしみじみと痛感させられていました。
「色んな楽器が弾けても、一回に一つしか弾けないよな」と当たり前と言えば当たり前の事を考えて、その当時一番仕事の本数も多く、幅広いジャンルに対応出来て、持ち運べる上、電源も要らず音量も豊かで、1人で仕事に出ても成立する楽器(こうして書いてみると、改めて理想的な楽器ではないですか!)、「アコーディオン」を一生の楽器として選んだのでした。
さて、その頃我が家にあった数々の楽器(二胡、琵琶、笛類、揚琴、日本の箏三絃胡弓、三線やギターなど)、そしてアコーディオンに関する事以外の楽書・楽譜類、そして長年かかって集めた中国語の教材や原書などは、子供の頃から愛用しているトランペットとアコーディオンの先祖に当たる「笙」だけを残して、全て兄弟弟子やその他それを活かしてくれそうな人のところへ綺麗さっぱりあげてしまいました。今思うと、そこまで極端な事をしないでも良かったのかも知れないと思わなくもありませんが、やはり楽器というのは手元にあれば手入れが必要になりますし、それぞれを鳴らしてあげる時間が必要になりますから、手放して心残りのある楽器もありますが、あの時にした判断は覚悟の表れとしては正しかったと思います。
それからあっと言う間に十年。当初は日本国内で手に入る資料・楽譜でアコーディオンを勉強していましたが、師匠金子万久が亡くなって数年、まだまだ知りたい事の答えを探しに毎年ヨーロッパへレッスンを受けに毎年通いました。そこに生まれ育って、或いは数年住んで見えて来る景色とは当然違いますが、パリやチロル、バイエルンやスロヴェニアでレッスンを受けたり、たくさんの経験を積んでお陰で知識の裏付けを取る事ができました。やはり自分の足で歩き、耳で聴いて、感じてみない事には分からなかった事がたくさんありましたので正いベクトルに向かったと思っています。そして、今はそれをレッスンで生徒さん達とシェアするようにしています。それは私にとって、やりがいのあるとても楽しい事でした。
そんな毎日を送っていた矢先、2022年6月24日またも恩師が急逝しました。1990年7月4日に18歳で入門した坂田進一先生のお教室。二胡を皮切りに琵琶、小三弦、笙、揚琴、月琴、大阮、中阮、洞簫、笛子、打楽器など江南絲竹の楽器の手ほどき、そして箏曲や地歌三絃、胡弓の最初の師匠になってくれたばかりか、この門下で実際にアコーディオンに触れる事になり、さらには後のアコーディオンの師匠を紹介してくれた大恩人でもあります。
生前に奥様から打診があり、国史蹟 湯島聖堂芸術講座「中国古典音楽」というクラスを引き継ぎ、十年ぶりに二胡を教える事になりました。二度と関わる事はないと覚悟して手放した楽器たちと再び向き合う事になった訳です。
このクラスは現行月曜日開講のところ、2023年4月の新年度からは日曜日に移動して、まるっきり初めて中国音楽に触れる方、二胡の初級者向け講座にリニューアルして新規生徒を募集します。私が提出した講座案内の文面は次の通りです
「中国音楽の小学校」がコンセプト。二胡を入口に幅広く様々な楽器の音色に触れて豊かな中国音楽の世界を楽しむ初級向け講座。聴講のみの希望者も受付可」
字数が限られているので補足しますと、日本の中国音楽教室は一般的にそれぞれの先生が専門教育を受けて来た、専門の楽器の独奏を習得する事を目的にしています。けれども幸いな事に、私がたまたま入門した坂田進一門下では二胡は数ある中国の民間楽器の一つに過ぎず、他にも美しい音色の楽器がたくさんある事を知る事が出来ました。もちろん一人の先生がどの楽器にも精通しているかというとそうではなくて、得意不得意があったりしたわけですが、それでも独奏曲を何曲かは修めて合奏には問題ないくらいの習熟度には達していたので、改めて凄い事だと思います。そんな先生が生前「オレは小学校の先生みたいなもんだ。専門以外にも一人で全部の教科を教えている」そんな師にはなかなか及びませんが、私も師匠に倣って「中国音楽の小学校」と銘打って、傑出した生徒が育った暁の専門的な教育は他の先生にお任せする事にして、まずは私が知っている事を幅広く興味を持ってもらえるように講義して行く事にしました。特に各地に様々なスタイルが存在するジャンルとしての合奏音楽(現代になって作られた民族楽器アンサンブルとは違うカテゴリーのもの)は、民間音楽の重要なコンテンツにもかかわらず、残念ながら日本では殆ど触れられる事がありません。これは実に残念な事で、現代曲のモチーフや楽器そのものの発生、また「らしさ」ともいうべき演奏のニュアンスの原点「ゆりかご」または「故郷」である各種合奏音楽やそこに使われる楽器類などにも焦点を当てて講義をしていきます。その中で「二胡より笛が好き」とか「琵琶をやってみたい」とか「お箏の方がしっくりくる」なんて人が出てきたら面白いし、そういう生徒がいて当然だろうとも思います。
そんな訳で湯島聖堂の「中国音楽入門」と私の主宰する音楽教室「創樂社」の講義内容は豊かで広い中国音楽の世界にも目を向けたものになります。興味のある方はぜひお問い合わせください。特に湯島聖堂のクラスは二胡の初級クラスではありますが「楽器は弾かないけれど、講義が聞きたい」という方々にも開かれたクラスになるよう、聴講だけの方にも参加してもらえるように調整しました。月に一回日曜日に中国音楽や文化について触れる機会に利用してもらえたらと思います(原稿を書いている段階で公式の印刷物が出来上がっておりませんので先行告知しています)
自分ができる事をなんでもガムシャラにやって来た時期を乗り越え、東日本大震災をきっかけにアコーディオン一本に絞ったここ10年あまり。そして恩師の急逝で渡されたバトンを引き継いだ今、気持ちの上でまた全てをリセットして次の10年を全力で音楽活動に取り組んで参ります。これからもご支援をよろしくお願いします。
中国音楽教室「創樂社」主宰
国史蹟 湯島聖堂芸術講座「中国音楽入門」講師
東京琴社絲竹班「進韻會」世話人
安西創
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