ブローデル『地中海世界』の感想
(これまで本書の章ごとに1000字で概要を、250字で「分かったこと」を書いて、毎回読書会をやってきた。最後まできたので今回は1000字で感想をまとめる)。
ある程度の素養がないと、本書のそれぞれの記述はどこの時代の何の事件や現象を指しているのかがすぐには分からない。つかみどころのない、とも一瞬思わせる。それが概要をまとめる際に毎回苦労したところだ。
どうしても、「このテクノロジーによってこのような社会や政治の変化が生まれた」、「こうした経済的要因である体制が崩壊した」という記述ばかりを目で追いやすい。歴史とは政治や社会の変化の連続であり、それは因果関係の連鎖であるとの思い込みを納得させてくれる説明を求めるのだ。
だがブローデルは、歴史空間には違った時間が流れ、日々の事件を受け入れる短期的な時間層、人口動態や国が示す時間層、そして最下には「歴史の重力、加速度を免れた」長期にわたり変わらない層があるとする。その最下層には地形や自然環境などがあり、そのうえで人々の感情や○○観と称させるものが往来している。
したがって「歴史は垂直に見なければいけない」「私にとって歴史は全体的なものとしてしか存在しない」との表現が、ブローデルらしさとして引用されることになる。歴史を立体的にみるといったとき、複数の地域の歴史を比較し、それらに共通性を見いだし大きな潮流の存在を認識するとの見方を、ぼく自身はしていた。またはある時代の事象が、何百年後に同じ場所や他の場所で似た事象がでることに気づくのを立体的との範疇に入れることもあったかもしれない。
もちろん、自然や長く続く伝統に「遊んでもらう」自分をまったく意識しないということではない。しかし、それを「垂直」とはとらえていなかったし、いわんや全体としてとらえられるほどに、ぼくの歴史的素養は十分ではない。つまり、そうした実感をもったことがなかった(30年ほど前に、この本を初めて読んだときでさえ、恥ずかしながらそうは実感することがなかったのだ)。
今回、章ごとにまとめ、仲間と解釈をめぐって意見を交わし、やっとこの「垂直」や「全体」の意味するところが、とてつもないほどに厚みと深みがあるのだと身体的に感じてきた。大学時代に初めて地中海沿岸に実際に足を踏み入れ、この30年、地中海世界のはずれであるミラノに生活し、ゴシック様式の教会を日常的に視界に入れながら、それらの経験や風景が自分にとって断片でしかなかったと痛感したのである。
本は読むべき時に、あるやり方で読まないと、その価値は目の前を通過するだけなのだ。言うまでもなく、何らかの残滓は後になって気づくのだが・・・。
(今回の1冊の感想をベースにして読書会を開いたあと、その次に歴史研究者をお招きして、これまでの疑問などをぶつけていく予定)。