カラマーゾフの兄弟を読みながら①
『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるときに思い浮かんだことを雑に記していく。作品自体の感想文ではないので、作品を要約したり内容に触れることはあまりないと思う。実際に作品を読んでいる人にとっては物足りないだろうが、読んでいない人もふつうに読めるような文を書いていくつもりだ。
介護職に就くことについて
どの職業にも「役得」がある。飲料メーカーの社員であれば未発売のジュースが飲めるかもしれない。マンガ家であれば、自分のマンガが掲載された雑誌やコミックスが無料で送られてくる「献本」という文化があるらしい。
では、介護職における「役得」とは何だろう。そう考えた時、「いつでも親を介護する能力があるという自信」がそれに当たるのではないかと思った。現場で毎日入居者と接することで培われたノウハウがある。"いざという時"でも困惑せずに、しかるべき機関へ連絡することができる。自分の手に確かで具体的な技術があるというのは「役得」であると言えるのではないか。
しかし、そんなに単純なものだろうか?
私たちは仕事をするとき、「肩の力を抜く」ということを覚えていく。1回1回全ての業務に100%の集中力を注ぎ込めることが理想だが、それでは長時間走り続けることはできない。そこで、ほどよく手を抜いていく。業務に優先順位をつけ、優先順位が低いものはテキトーにこなすことで、優先度が高いものに対して全力を注ぐことができる。このような手の抜き方は、いわば「仕事しぐさ」と言える。適度に手を抜くことで、ダウンせず、ミスも少なく、自分の心を守り、全体的に「いい仕事」ができる。
しかしながら、これは「職業として」業務を行なう場合である。相手が仕事上の客(他人)ではなく自身の親となると、一気に話が変わる。普段は介護の仕事を難なくこなしている人でも、自分の親が相手だと、愛しすぎて(あるいは憎すぎて)、まともに業務を遂行できなくなるかもしれない。
「客」という他人相手に仕事をするのと、プライベートで友達相手に能力を発揮するのとでは感覚が変わる。ましてや親相手となると。
このような精神的葛藤は、まったく気にならないという人もいれば、致命的なほど足枷に感じる人もいるだろう。
よって、人がある特別な職能を持っていても、それを単純に「役得だ」と言うことはできないかもしれない。
アリョーシャが修道院に行く決心をしたことを父親に話すシーンで以上のことを考えた。終わり。