二言め

瞳を閉じると、ざわざわとした自分とは無関係に起こる喧騒から、感覚的に少し離れたような気がした。
「ねえ」
目の前にいる人物に声をかけられる。
「そっちから誘ったくせに、会って早々寝ないでよ」
ごめん、と思ってもいないけど軽く謝ると、その人は同じ程度に軽く、薄っぺらい笑みをその顔の表面に浮かべた。
「あの」
「あのさ、将来のことってもう考えてる?」
唐突な、しかし最近は日常的に聞かれるその問いに、私は少し体の端がこわばった。
なんとなくと返す。その返しに、これまた軽いははぁという笑いが漏れる。
「俺さ、全然わかんない。小中って頑張ってきて、まあ頑張ったつっても塾に通って体操教室行って水泳やって習字やって空手やってみたいな、細かいけどやることがたくさんあった中でもがむしゃらに頑張ってた時期があってさ、それが終わって俗にいう進学校ってものに入って、こう、未来とかそういうんじゃないけど、希望を持たされるじゃん。お前らはやればできる、未来は無限に広がっている…。中学とか途中でやめてった奴らって今何してんだろうな。通信制とかよくわかんないけど。あ、そうか就職っていう道もあるのか。そういう奴らの通った道とか全然想像できないけど、俺も一歩踏み外したらそうなってたのかなって考えるとふしぎだよね、俺とあと何千人はあんな綺麗な校舎でほぼ惰性で、まあ惰性じゃない奴もいるだろうけど、毎日授業受けて、ちょっとしたことで笑って、ちょっとしたことで沈んでさ。
…俺、アレ好きだよ。校門のちょっと先にある自販機に売ってる水。どこの水か明記されてないけどなんかうまいんだよな。コンビニとかのより数倍美味いと思うんだけど、どう思う?いや、みんなまずいっていうからさ。虫みたいな味すんだって。虫食ったことあんのかよってね。話がそれた。でな、俺たまになんでこんなとこ座って授業受けてんだろって思うことがあってさ。世間一般で考えたら俺くらいの歳、高校なんて十五、十六、十七、十八のガキが通う場所って相場が決まっちゃってるけど、でもさ、そういう凝り固まった観念を取っ払ったら、俺何してるんだろって。この時期、よくわかんないのが入り混じったような心の奥底でいろんなものごとを斜めから捉えようとする期間にさ、勉強じゃなくて、もっと別のことを考えられたら。もっと自由に時間を使って自分のことについて延々と悩んだり、自分の好きなやつとずっと一緒にいたり、生来の親元を離れてずっとずっと遠くに行ったり…常識に制約されなきゃ、できることはたくさんあるんだ。もちろん、この今現在の常識とか良識を無視して、集団から一人飛び出てイレギュラーなことをすることもできる。実際それで成功して、最高の人生を送ってる奴もいるだろ。いや、…最高かはわかんないけど。表向きは素晴らしい人生を送ってる人を俺は何人も知ってるけど、俺はそういった集団を抜けて、決まりきった線路を抜けて、何かでかいことをするなんて勇気がないんだ。親や、先生に言われる通り、俺には楽器とか、彫刻の才能があるんだって、苦しんでる人の辛さをわかってあげられる心があるんだって、言われるさ、よく言われるけど、俺だって自分のそう言ったピカイチのものを信じたいけど、いざやってみると、そんなのないってわかる。本当に、俺がやってたのは、遊びみたいなもんだったんだよな。実際プロとか、プロじゃなくても才能のあるやつとかみるとよくわかるよな。俺の作るものとは全く違うんだ。楽器だって、俺は弾ければ、自分が楽しければいいと思ってる。けれど、それを親とか弟に聞かせると、俺に対して申し訳ないみたいな、なんだかよくわかんない表情をするんだ。それで、俺もなんだか苛ついてさ。…今日の朝なんて、弟に向かって中身詰めたての水筒投げちゃってな。弟がうまく避けたからよかったけど、その向こうにあった一品もの…っていうのかわかんないけど、古くて、高級そうな障子だめにしちゃって。親が一階に降りてくる音が聞こえたから急いで家飛び出してきたけど、怒ってるだろうな。連絡も何も来ないから、逆にすごい怖いんだ。」
そこまで話して彼は、一息ついた。アイスティーを飲んで、不自然に片方の唇の端を上げて、半分くらい巻き上げられたブラインだの向こうを見つめていた。私は、ほんのりレモンの香りのついた水を口に含み、冷房の弱い店内の気温によってコップの側面にできた結露を一つずつ、潰すように指でなぞった。
「生まれた時から、…もっというとうち本家だから、俺からもう何代も前の人も住んでいた家…両親がずっと守ってきた家を離れて、どこか遠くに住むなんて考えられなかった。だってなあ…ずっと親の保護のもとで、寝てても食事が出てきて、汚れた服は綺麗に洗濯されて、どこに何があるかわかんない部屋はいつの間にか掃除されているような環境で十八年生きてきて、今更なあ…ぜったいに実家を離れないぞって思ってたけど、なんていうか、この時期の思考回路は怖いね。突然、出て行きたくなってさ。」
彼は窓の向こうを見つめたまま立ち上がった。縦長のグラスに収まっていたはずのアイスティーがなくなっていることに気づき、私もほとんど中身の入っていないリュックを肩にかけ、席を立った。

果ての内容に思える舗装道路をゆっくりと歩きながら、明かりの灯り始めた背の高い街灯を3つ過ぎたあたりから、なんともなしに彼は話し出す。
「…友達がさ、北海道に住んでてさ、住んでるアパートにかなり空きがあるっていうから、そこに住みながら、バイトしつつ、資格取る勉強でもしようかと思ってるんだよね。…大学は、入試やんないと入れないだろ?しかも俺、そこまで頭良くないし。先生は国立行けって言ってくるけどね…俺もぜったいその方がいいと思う。だって、国公立卒業って将来約束されてるようなもんじゃん。安泰安泰。俺も実を言うと大学行きたいのよね。けど、やりきれる気がしないので、パスします。え?ずるくないよ、お前は頑張ろうと思って大学目指してるんでしょ。俺頑張ろうとかないもん。…北海道は多分寂しくないよ。雪あるし、山あるし、海あるしな。どっかの刑務所、あるじゃん。あそこ一回行ってみたい。」
へえ、と一言返して、彼の言う通りなら、彼には、来年の春からひょっとしたらこの先永遠に会えなくなってしまうかもしれないなと思う。二人とも時計は持っていなかった。だから、時間はわからなかった。しかし、私はその時、大きくて赤い太陽が地平線の向こうへ落っこちていく様子を見た。

初出・h28年 高校の文芸誌にて


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