日記2025/01/21
noteを始めました。以前からお前は文章を書くべきだと言われており、僕もその通りだと思っていたんですが、TwitterとFCモバイルで1日が終わるので今日までちゃんと始められずにいたのです。とても悲しいことです。文字書きのハードルを下げるため、とりあえずだらだらと文章を書いていきます。
僕は精神の露出狂でして、自分がどんな人間で何を考えているのか、全部喋りたくなっちゃいます。適度な自己開示は健全な人間関係の構築に資するので、この特性に助けられることもあるのですが、当然マイナスな面もあります。「普通に幼稚すぎる」などがそれです。自己開示は、試し行動になりがちです。
「自分にはこんな傾向があり、こんな悪いところがあり、こんな気持ちを抱えて生きていますが、今、僕はあなたを信頼してこのようなことを言うのであって、あなたにはありのままの僕を許してほしいのです。」
↑自己開示する時、僕が言いたいのはこれです。こんなのは幼稚すぎる。幼稚が即悪となるわけではありませんが、本当はもっと余裕のあるクレバーな人間でありたいので、その点では明確にマイナスでしょう。何が幼稚かと言うと、自分を認めるための手段として他人を使っていそうなところです。相手を人間扱いしたい。僕はもっと深遠な優しさを発揮したいわけです。相手をきちんと見つめて、相手の人格を尊重したいわけです。それをこんな必死に許してもらいに行っちゃダメじゃないですか。まず、許す許されるの関係って対等じゃないし。しかも構造がねじれてるんですよ。構造としては僕側が許しを賜る形になるんですが、その構造に相手を巻き込み、欲求を満たしているのは僕ですからね。自分が下に回るという形を取りつつ相手を利用するというのは、卑怯千万です。最近流行りのファムファタ論争にも通ずるところがありますね。自らの欲求を満たすため、能動的に、受動的な立場を希求するわけです。これは被支配の皮を被った支配であり、マゾヒズムの皮を被ったサディズムです。僕は自己欺瞞の人、ジコギマニストです。
まぁでも、程度によりますし、相手がいいならいいっていうとこもあります。自己開示というものの暴力性についていろいろ考えることができるよねくらいのものです。行為って加害だからな割と。僕は言葉遣いが大袈裟になる癖があるので、ちょっと薄めて読んでください。そんなに自己否定してるわけでもないです。このnoteも自己開示ですし、多分あんまり反省してなくて、それが良くない。眠いので寝ます。英語のテストがあったんですよ今日。単位取れるといいな。危機感がないままこんな時期になっちゃった。自分で自分の人生を生きられるようになりたいな。
みなさん、よい人間になろう。その方が良いから。