好きなのにアンチスレをみてしまう
好きなコンテンツがある。今の時代、あえて能動的に知ろうとしなくてもインターネットを眺めていれば(共通の趣味を持つ友人から別の友人に情報が伝播するなど)自然と新しいものが流れてきて人々は勝手にハマっていく。現に私もその一人で、得た情報から様々なジャンルにハマりそれらを生活の糧にしている。にも関わらず、私は好きなもののアンチスレを読む。
ハマってから数ヶ月の間は情報を集めたり同じ熱量で語り合える友人を探したりすることに勤しむ。この期間が一番楽しい。何をしていても常にそのジャンルのことが頭から離れず考察を繰り広げている。絵に描いたような沼の状態だ。その状態がしばらく続き、ある程度熱が最高値に達して半年弱が経った頃、私はSafariで『〇〇〇〇 アンチスレ』と検索をかける。これは自ジャンルを通した精神の自傷でも自ジャンルの魅力を理解しようとしないものに対する嘲りでもなんでもない。自分自身の予防線のために見るのだ。
信者と呼ばれる人たちがいる。
なんらかの失言や不誠実な行為で炎上した著名人を幾度となく見てきた。通常のツイートの何倍ものリアクションを受け、さまざまなリプライ、(鍵付き)引用リツイートがつくアレだ。そして不祥事を起こした推しの謝罪ツイートに対し、信者たちは真摯にそのメッセージを受け取り「なにがあってもずっと応援し続けるよ!」と続ける。それに対し他のユーザーから「信者乙」と返信がつく。終わりのないバトルの開幕だ。お決まりのやつ。もういいよ、お腹いっぱいだよ。何回このくだりをやるんだ。だが私にとっても蚊帳の外の話ではない。自分の好きなジャンルに限ってそんなことはないと思いながらも、心のどこかで炎上を恐れる私がいる。そして、もし、仮に、炎上してしまったとして、世間が自分の好きなコンテンツを批判する中で、なんの根拠もなく、ただ好きだからという理由で推しの擁護に走る自分になったとして、どうだろうか。まだ起こってもいないことなのにそんな自分を客観視するとなんだかやるせなくなる。だから定期的に自分の好きなコンテンツのアンチスレを読むことでニュートラルな自分を保つようにしている。いわば炎上時の訓練だ。自分の中で、アンチスレに書かれた投稿に対し間髪入れずに真っ向から批判してしまうようになったら信者と呼ばれるボーダーを超えたと思うように決めている。アンチスレには本当か嘘か分からないそのコンテンツの歴史(人物の経歴)や単純な悪口、またアンチを装ったファンもいて本当にカオスだ。(カオスながらもスレの流れにはなんとなくのパターンがあり、言ってしまえば単調なのかもしれないが)そんな根も葉もない噂の中にも、時々的を得た投稿が見られることがある。私は、そういった「ああ、確かにそうかもしれないな」という意見を見落とさないように、一旦立ち止まって咀嚼するように心がける。この行為に意味があるのかは分からないが。
別に信者が間違っているわけでもないし、匿名をいいことにとやかく批判する人に賛同しているわけでもない。だって信者の声がいずれ炎上を受けた人の更生に生きるかもしれない。インターネットの使い方、コンテンツの楽しみ方は人それぞれだ。ただ私は先程も述べたように0か100のどちらかに振り切れるのが嫌なだけなのだ。ものの捉え方、感じ方なんて人それぞれだし正解がない。正解がないからこそ私は変に拗らせてるだけであって。
今この文を読んでいる人は「もっと純粋に楽しめよ」と思っただろう。私だってそう思う。なんとかなるならなんとかしたい。しかし、これは自意識の問題で今更すぐにどうこうできることではないし、しばらくこの癖は抜けないだろう。しょうがないね。
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