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近況おてまみ

こんにちは。

久々にお便りみたいなのを出したくなって、お手紙を書く気持ちで書いています。
今朝は、さるすべりの花を見かけてうれしくなりました。ぽぽぽっ、とした咲き方と、濃い薄紅色がかわいくて仕方ないんですよね。枝の生え方もぴーんとしてて、あの木、好きです。

最近、年月の重みと効能をすごく感じるようになりました。十代のころにはとても感じなかったような、年月を重ねたことによる記憶の風化、です。
「そんなこともあったよなあ」と、思い出として「あの頃」を思い出す。その時感じた鮮やかで、きついくらいまばゆい閃光が、穏やかなセピア色の写真、あるいは風景画のように収められている。こんな気持ちになるなんて、思いもしなかったです。

あの日の失敗も、悲しかった記憶も、取り出して眺められる。時間の効力のすごさを認識すると同時に、ああ、だから人は「何か」を残そうとするのか、と思いました。

それから、最近、「自分にとって縁のある場所や人、モノ」と、そうではない、縁が薄いものとの差が、はっきり分かる瞬間が時々訪れるようになりました。

たとえば、日常的に過ごす職場。そこにはたくさんの人がほかにもいるわけで、目の前に現れている時点で「縁がない」わけはないのです。が、「縁の薄い」人は、まるで「そこにいない」みたいな、風にたなびく暖簾みたいな感触があるんですよね。で、「立ち寄ったけれど縁がない場所」の場合は、「冷たい」のです。「スッ」と温度が何度か下がったような感じ。「温度が通わない」ようなかんじですね。すこぶる他人。

これが、ちょっと、わかりすぎるときついなあ、って思うんですよね。人に対しても、「あっ、」てわかっちゃって、少し切なくなりながら、「袖振り合う縁」に感謝する。そこで欲張りに手を伸ばしても、互いのためにならない。引き際を見極める強さを磨いているところです。


わたしはいまでも、「なんで手渡されたのかわからないもの」や、「何を手渡されたのかもわからないもの」がたくさんあります。
ただ、渡されたものがとても尊い宝であることはわかったから、かけがえのない何かを精いっぱいこの手のひらで受け止めよう。…と、前までは、「よくわからないながらも精いっぱい受け止めて、明日へもっていこう」と思ってました。
今は、「よくわからない、手渡された尊い何か」にふさわしい自分であれるよう己を磨き、精一杯生きていこう、と思っています。ぼたもちやクレープがやっぱり大好きなので、そのへんをつまみながらね。
余談ですが、「食べたいものないし大福とかで夕飯を済ませよう」と画策してるとだいたい誰かとご飯に行く流れになったり、食事を与えられます。わかってんね。最近その手腕にただただ感服する日々です。わかっちゃいたけどやっぱ、さすがやわ。ありがとうね。
(⁠ ⁠´⁠◡⁠‿⁠ゝ⁠◡⁠`⁠)



あと、常々、現代人の悲鳴に「覚えることが多すぎる」がある気がするんですよね。「忘れないでください」「知ってください」が多すぎる。だから、「忘れない」じゃなくて、「忘れてても、覚えてなくても大丈夫」がいいなあ、と思うこの頃で。
一方で、「感謝を忘れない」ってやっぱし大事だなあとも思うわけで。だから、「感謝を毎瞬生み出す」でいいんじゃないかと。忘れても、繰り返しその瞬間新鮮に埋めたなら、いいんじゃないかと。

記憶の風化、経年による石碑化を感じることが増えたからこそ、石碑を持ち歩かなくてもいいように。人間は忘れる生き物で、だからこそ大地があって、石があるんだろうなと思いました。


 こんなかんじでいいのかな?
それでは、今日の風に吹かれながら、お弁当を味わおうと思います。

あなたにこの花の香りが届きますように。