
インドの「寛容さ」が、インドを魅力ある国にしているかもしれないという話
私がインドを好きな理由の1つに「寛容さ」があります。インドには物事を広く受け入れ、許す心があり、私はこの寛容さに幾度となく救われた経験があります。
今日は私がインドで出会った「インドの寛容さ」を感じたエピソードをご紹介します。
「受け入れる」とはどういうことか?
自分が「受け入れられる」というのはどんな感覚なのか?
今はコロナウィルスの影響もあり、人々の心がギスギスしてしまっているような気がします。そんな今だからこそ、読んでほしいお話です。
普通のケンタッキーで出会ったちょっと変わった店員さん
あるとき、インドでも普通によくあるチェーン店のケンタッキーに入りました。システムは日本と同じで、レジで注文するセルフサービスのお店です。
自分の注文を決め、店員さんに伝えたところ、なんだか様子がおかしい。
私があれ?と思っていると、後ろにいたお客さんが「この人は耳が聞こえないんだよ」と教えてくれました。
えっ?えっ?とはじめてのことに戸惑う私。
その店員さんは、耳も聞こえないし、話すこともできないようでした。
後ろのお客さんが、「耳が聞こえないからメニューを指して教えてあげたらいいよ」とさらに教えてくれます。
店員さんじゃなくて、後ろにいたお客さんが教えてくれます。
私はおどおどしながら、メニューを指し、途中で他のスタッフも隣でサポートしつつ、無事に注文を終えました。
その後、私に教えてくれたお客さんも普通に注文していました。
耳の聞こえない店員さんとサポートしていた人、私に教えてくれたお客さん、みんななんともないような顔をしています。
驚いておどおどしていたのは私だけ。全員があたかも「当たり前」といった様子で普通にやり取りをしています。
「耳が聞こえない人」が普通にチェーン店で働いていて、お客さんの方もまったくそれを特別視せず、当たり前のようにしていたのです。
日本だったら、こんなふうにスムーズにいくのだろうか……?
「耳が聞こえない障害者」への特別視がなく、あまりにも普通にその場に馴染み、お客さんも当たり前のように受け入れているその様子に私は衝撃を受けたのでした。
さらに変わったチェーン店・コスタコーヒー
この衝撃は、これだけに終わりませんでした。
後日、「コスタコーヒー」という、これまたインドでその辺にあるコーヒーチェーン店に行きました。
スタバと同じようなシステムで、まずはレジで注文をします。
すると、今度は店員さんから、スッと小さな紙とペンを渡されました。そう、この人も耳が聞こえない人だったのです。
ケンタッキーで経験していたので、私は「あ、ここもそうなんだ」と思い、今度は動揺することなく、紙にオーダーを書いてスムーズに注文が終わりました。
しかし、驚いたのはこの後。
席に座って店内を観察していると、ここの店員さんは全員耳が聞こえない人だったのです!
一般的に、インドでは従業員の数が多く(人口が多いからなのか?)、コスタコーヒーもあまり大きなお店ではないのに、5~6人の店員さんが働いていました。
その全員が手話で会話をしながら、オーダーは紙に書いてもらって、仕事をしていたのです。
そして、観察をしていて気づいたのは、お客さんも本当に普通にやり取りをしていることです。
ケンタッキーのときと同じように、誰も驚いたりせず、おどおどしたりせず、さも当然のように紙にオーダーを書き、普通に過ごしています。
ここは授産所でもなんでもなく、本当にその辺にあるチェーン店の1つです。
実は、このお店は当時デリーに住んでいたとき、近所にあり、休日はよく行っていたのですが、健常者が1人いるときもあれば、この日のように全員耳が聞こえない店員さんのときもありました。
私はこの事実に呆然とし、日本の環境と比較し、ショックを受けたのです。
「障害者」と「健常者」は区別するもの?
インドでは「障害者」を特別視することなく、普通に社会の中で混ざりあっている様子を目の当たりにしました。
私は「これが日本だったら、どうだろう?」と考えました。
日本だったら、「健常者」と「障害者」をキッチリと分け、「障害者は授産所で働くもの」という意識が少なからずあるような気がします。
学校だって、「特別学級」といって障害を持った子どもはこっち、健常者は普通のクラス、と分けますよね。
今は社会が徐々に変わってきているかもしれませんが、日本では「区別」をするのがいいこと、とされているような気がします。
以前働いていた会社でも、耳が聞こえにくく「障害者枠」で採用されている方が1人いました。その方は完全に聞こえないわけではなく、補聴器を使って、コミュニケーションがとれる方でした。
それでも、会社では「障害者は何人採用しないといけない」という法律にしたがって採用していたようで、「本当は取りたくなかったけど、ルールだからしょうがなく」という雰囲気を感じていました。
当時、会社全体に「あの人はお荷物」みたいな空気が流れていたのです。
「違い」を受け入れるインドの心の広さ
前職でのこのような経験と、健常者と障害者を「区別」しがちな日本の雰囲気を感じてきた私にとって、インドの様子はまさに雷に打たれたような衝撃がありました。
「なんだ。耳が聞こえない障害者だって、周りの人が普通に受け入れれば、なんてことなく普通に働けるんじゃないか。
インドはそれを実現してるじゃないか。
やればできるんじゃないか!」
そう思ったのです。
これ以外にも、インドでは外で障害者を見かけることがとても多いです。
・足がなくて、手で操作する機械に乗って移動している人
・目が見えない人
・手がない人
けれど、それを「特別視」する視線は、日本よりよっぽど少なかった気がします。
障害者本人も、それを「恥ずかしいもの」、「隠さなければならないもの」という意識はまったくなく、いたって普通に過ごしていました。
インドは本当にカオスな国です。
道はゴミで溢れているし、牛の糞はあるし、交通ルールなんてないようなものだし、クラクションがうるさくて気は休まらないし。
けれど、障害者も健常者もみんな一緒。
全てがごちゃまぜの中で、ぜーんぶ一緒に生きていました。
ぐちゃぐちゃな秩序がないように見える中にも、人のやさしさと、違いを受け入れる心がありました。
こんなインドに「私も受け入れられている」と感じることができたから、私はとても心地よく過ごすことができたのかもしれないなぁ、と思っています。
違いを「短所」や「よくないこと」として捉えるのではなく、「その人の1つの個性に過ぎない」と思って接してみれば、見え方は変わってくるかもしれません。
やさしい気持ちになれるかもしれません。
そうやって、「他人を許す」ことは巡り巡って「自分を許す」ことになるのではないでしょうか。
インドの寛容さに触れた私は、今こんなふうに感じています。